2009年7月 2日 (木)

江戸のクラスアクション(集団訴訟)(2)

 先日の記事、徳川19世紀の二つのボーダーレス化において、「文政六年一千七ヶ村国訴」について触れた。同時期の別の事例を知ったので、江戸がいかに訴訟社会であったかを知る手がかりとして紹介しておこう。

①1778(安永7)年、甲府町方大工は、冥加金を出さない在方大工(つまり村在住の大工)が、安い賃金で府内の大工仕事を請負うため渡世に困るので、在方大工の府中入り込みを禁止してほしいと甲府勤番に訴えた。

②1779(安永8)年、在方総代の下山定右衛門以下三人が、町方に①の対抗訴訟を起こす
→ 在方勝訴。

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2009年6月18日 (木)

19世紀徳川公儀体制の黄昏

 徳川国家は身分制国家であった。これは、1603年に徳川家康が京の後陽成院から征夷大将軍の宣下を受けたときから、1867年、徳川慶喜が京の睦仁帝に大政を奉還し、将軍職を辞するまで変わらない。

 しかし、19世紀の列島の岸辺には、時に丁重に、時に傍若無人に、主権国家化を既に果たしていた西洋列強諸国が押し寄せていた。

 そこで、身分制国家を二元的に図式化してみる(参照 村上淳一「ヨーロッパ近代法の諸類型」、平井宜雄編著『法律学』日本評論社1979所収)。

①「政治権力をしだいに集中してゆく君主」

②「自立的な諸権力から成る政治社会」

 そして、この身分制国家が主権国家になるということは、この二元性を清算し、唯一の主権のもとで一元化されるということを意味する。すなわち、①によって②が併呑される、ということである。その時、②は「国家の担い手もしくはそれになんらかの形で参与する者の範囲が底辺に向かって拡大していくこと、すなわち政治の国民的浸透」(石井紫郎『日本人の国家生活』1986 )、という遷移過程を示す。

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2009年6月 5日 (金)

リベラリズムの核心は、自由ではなく正義である

「自由は、正義理念が課す公共性の規律に服してはじめて、「他者からの自由」、すなわち、他者を支配ないし同化するか、それができなければ排除するという権力への欲動を秘めた自己力能化としての自由から、「他者への自由」、すなわち、他者の批判と撹乱的影響を自己の精神の地平を拡大再編する自己変容の触媒として受けとめる自由へと成熟することができます。正義に先立つ主体の能力としての「他者からの自由」」ではなく、正義が可能にする「他者への自由」こそが、リベラリズムの認知をうける自由です。リベラリズムの基底的理念は自由ではなく正義であるとというのは、この意味でおいてです。」
井上達夫「リベラリズムをなぜ問うのか―『他者への自由 』韓国語版への序文―」
 『創文』NO.519(2009年5月)、p.6より

 うーむ、なかなか難しい。相互批判の自由が人間各自の人間的成長の機会であり、相互批判という他者干渉が許されるのは、正義という名の公共性の規律に各自が服しているときである、という意味のような気がする。ま、捲土重来、と言うことにしておこう。

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2009年5月27日 (水)

帝国は近代主権国家になれない

 18世紀、西洋で「七帝国」と認知されていたものがある。ロシア、神聖ローマ帝国、トルコ、中国、ムガール、日本、の七つである(平川新『開国への道』2008 )。これらが「帝国」とみなされたのは、それらが「諸王に君臨する皇帝がいる国」(同上)だからである。

 そしてこれらすべてに共通するのは、「帝国」的国制を維持したままでは、近代の主権国家に脱皮できていないことだ。近代主権国家の目印は、ある特定の領域に、一つの権力、一つの常備軍、一つの官僚制、一つの徴税制度、議会制が存在することである。西欧諸国が近代主権国家の外貌を呈するのは、それが絶対王政による、身分制社会の各身分に属する諸権利の清算(=主権化)という「地均し」を経た時であり、その完成は、何らかの「国民化」革命を経験した時である。

 さて、そこで徳川公儀の国制だが、これは常備軍の有無一つ見ても、官僚制を見ても、その体制内でいろいろな自己改革が試みられたとはいえ、やはり自力では身分制社会の清算を成し遂げられなかった。なぜなら、徳川の国制が新しい近世の身分制を創出すること、いわば新しい社会契約そのものだったからである。

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2009年5月25日 (月)

徳川19世紀の二つのボーダーレス化

■徳川FBI

 関東取締出役(かんとうとりしまりしゅつやく)、通称「八州廻り」。文化2年(1805)、悪化する関東地方の治安回復のため、関東代官の手付、手代から選抜され、勘定奉行に直属した治安警察組織が、この関東取締出役である。

 19世紀前後、関東の地回り経済が発展し、それにともない、百姓身分の人々にも様々な流動化が起こる。天明の大飢饉後、農村部に土地や富を集積する豪農層が成長してくるとともに、土地を持たない水呑み、日雇、出稼といった、農業以外の業に携わったり、専ら雇用されないと生きていけない階層(=労働力商品)が出現する。そのなかで、いわゆる無宿、渡世人として当時の身分法体系の下の外にいる庶民たちが多く出、その中から犯罪や非合法な活動をし、徒党を組む者たちも現われた。

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2009年5月18日 (月)

百姓と朝廷

 「オトナナリ」という儀式をご存知だろうか。別名、「官途成(かんとなり)」と呼ばれたりもする。論者から一部引こう。

「オトナナリは文字どおり老(おとな)になることで、成人式であり、村の正規の成員になる儀式である。中世の人々は一人前になると頭に烏帽子(えぼし、冠)をつけ、刀を腰にさし、幼名をあらため名乗りをつけた。百姓・職人とて例外ではない。幼名は寅年生まれなら虎、戌年なら犬、二番目は二郎で、五番目は五郎、すこし上品になると虎千代、五郎丸といった感じであるが、成人となるとこれに官名がつく。スケ(允、助)、ヒョウエ(兵衛)、エモン(衛門)・ジョウ(尉・丞)などなど、単純な例であるが、虎助、二郎兵衛、五郎左衛門、虎之丞といった具合である。

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2009年5月16日 (土)

「御一新」 その隠されたモダニティ(3)

 かつて、以下のような記事を書いた。

「幕末期の水戸学や国学に、奇妙な近代的急進思想があり、明治の国家イデオロギーには、関曠野が指摘する、一つの近代的人間観、すなわち社会の紐帯から切り離された原子論的人間観が潜在している。
 これをどう考えるか。
 伝統思想の強化されたリバイバルとみなされがちな、後期水戸学や国学だが、彼らとて江戸後期の時代思潮から自由ではあり得ない。おそらく、蘭学を始めとする、多様な西洋思想から摂取したものがやはりあったのではないか。その物証を探求する必要がありそうだ。」
「御一新」 その隠されたモダニティ(2)

 「明治維新」という国制変革運動に、西洋思想の影響がありそうだと考えたのだが、これは少し思慮が足りなかったかも知れない。というのも、水戸学や国学には、想像以上に、徂徠学の影響があるように思うからだ(学界の定説?)。そうであれば、その奇妙なモダニティにも合理的な説明がつく。再論する予定。

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2009年5月 8日 (金)

「藩」コーポレーションの成立

 現代日本人が徳川日本に存在したと信じている「藩」。実は、この「藩」なる語が統治者の公式文書に載ったのは、明治二年(1869)の「版籍奉還」から「廃藩置県」までのわずか二年間にすぎない。人口に膾炙し出したのは、徂徠学派の影響が浸透する18世紀半ば以降である。(渡辺浩『東アジアの王権と思想』東大出版会1997 、p.8参照)

 したがって、あまり気軽に「藩」という語を使いたくはない。しかし、実はこの「藩」なる語が一般化することと、武士たちの勤しむ大名家が、主君⇔家臣という personal な関係から、一種の「法人 corporation 」化を果たし、君主、家臣団ともに impersonal な「藩」という法人を構成するメンバーに過ぎないという認識が広まるのは、時間的におおよそ一致する。

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2009年5月 7日 (木)

近代西洋、その力の根源

 19世紀前半、右往左往する徳川日本に乗り込んできた西洋列強の力の根源は、なんだろうか。単に、新しいテクノロジーに基づく、軍事力や産業のパワー、なのだろうか。それらを生み出すより根源的理由はなにか。

 そのヒントを、再びウェーバーに聞いてみよう。

「・・・、古代プランテーションに対すると全く同様に、近代的・資本主義的作業場経営にとっても、「軍事規律」が理想的な模範であるということは、改めて証明するまでもないことである。ただし、ここでは、プランテーションにおけると異なって、経営紀律は完全に合理的な基礎にもとづいており、最善の収益をあげるにはいかにすればよいかという見地から、何らかの物的生産手段と同様に個々の労働者をも、ますます、適当な測定手段を利用することによって、計測する(カルクリーレン)するようになっている。この原則にもとづいた・労働給付の合理的な調教と習練とが最高の勝利をおさめているのは、周知のごとく、アメリカ式の「科学的管理」方式 System des "scientific management"においてであり、この方式は、右の点では、経営の機械化と紀律化との最終的帰結を実現している。ここでは、人間の精神肉体的な装置は、外界、すなわち器具や機械が、つまり機械作用が、人間に呈示する諸要求に完全に適応させられ、彼自身の有機的構造によって与えられるリズムは無視されて、個々の筋肉機能への計画的分割と最善の力の経済とを達成することとによって、労働諸条件に適合するように、新たなリズムを与えられる。この合理化の全過程は、ここ〔経済的経営〕においてもどこにおいても、とりわけ国家的官僚装置にあっても、ヘルの処分権力下に置かれている物的経営手段の集中と、歩調を合わせて進行する。
 このように、政治的・経済的需要充足の合理化に伴なって、規律化は、一つの普遍的現象として、制しがたく広まってゆき、カリスマと個人差に富む行為の意義とを、ますますもって制限してゆく。」
マックス・ウェーバー『支配の社会学2』世良晃志郎訳・創文社(1962) 、pp.522-523

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2009年5月 3日 (日)

資本主義文明を再考する

 私があれこれ徳川期のことを書きたいと考える第一の理由は、それが我々の現に生活するこの列島の、いまだ全面的に資本主義化されていない時代であるからだ。

 たかだか四世代、150年ほど遡ることで、眼前の資本主義と異なる生活様式、心性、国制のもとで、我々のご先祖がまさにこの列島の上で呼吸をしていた、という事実が、現代の我々の生活総体を再考するときの参照枠になるに違いないと思うからである。言い換えれば、我々が信じて疑わない「現実(リアリティ)」とは異なる、別の「現実(リアリティ)」の下で暮らしていた人々が、他所(よそ)ではない「ここ」にいたということを知ることが、我々を生(なま)の思考の金縛りから解き放つ効果があると思うからである。

 さて、そこで、である。今や我々の「世界」が、20世紀の経験と異なる道を辿り出しているかも知れないと仮定するならば、一旦は、それを総体として把握するように努めることが必要だろう。そこで、人間の物的、心的生活様式全体を「文明」と呼ぶなら、文明的考察を一度はしなければならないわけだ。

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2009年4月26日 (日)

19世紀徳川日本における民の力量の増大(とりあえずの結語)

3)庶民の学としての朱子学

 18世紀前半の徂徠学革命によって一蹴された観のある朱子学だったが、18世紀後半になると様相が変わってきていた。

 徳川18世紀後半は、列島思想史上、特異な時期といえる。官許の思想、イデオロギーというべき正統の学がなく、少なくとも学芸上のことであれば、公儀も出版規制を放置している状態といえた。それは、田沼政権下における、ペレストロイカとでもいうべき事態であって、儒学の外では、心学、国学、蘭学、経世思想など多様であり、儒学内部でも、一人一学説の折衷学派などがひしめき合い、互いに己の説を競い、私塾であればその門弟数を競っていた。一方、文芸の世界では、黄表紙のごとく趣向の新奇さを競う末期的症状が現われており、またその世界に才能を供給していたのが幕臣や諸藩の下層部分であった。つまり、有体に言えば、現今の世はタガが緩んでいる、という認識が治者の中にも被治者の中にも芽生えてきていた。

 そのなかで、底流として朱子学の復権が起きる。それには四つの側面がある。

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2009年4月25日 (土)

19世紀徳川日本における民の力量の増大(3)

2)思想史的背景(前回の続き)
 徂徠にあっては、この「事実」と「価値」の認識論上の分離は、経学研究における実証的アプローチと、優れた経世論(政策論)を同時に可能とするものであった。しかしその一方で、漢学者として必須の表芸としての詩文作成においては、従来の、詩は志であり、政治や社会への批評がそこに内在しなくてはならないし、作者の人格の反映として倫理的に高いものであるべきだ、という価値観から詩文作成を解放した。なぜなら、人間の生得の気質は画一的な道徳によって変化させうるようなものではないのだから(=気質不変化説)、むしろそのまま矯めずに個人の気質をのばしたほうがよい、という徂徠の主張が、詩文の位置を、儒家的価値の表現手段から、ありのままの人間性を表現する手段に押し上げたからである。そこに、けん園詩文派が盛唐を偏重する『唐詩選』を持ち上げ、18世紀徳川におけるベストセラーとする要素もあった。

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2009年4月24日 (金)

19世紀徳川日本における民の力量の増大(2)

■ならば、なぜこの時期に朱子学が官許の学問になったのか。

1)社会経済的背景
 18世紀徳川日本における経済社会の成熟。一般に、18世紀は人口増加も停滞し、後半になれば天明の大飢饉、百姓一揆、打毀し、などもあり、経済的に貧しいイメージだ。
 しかしマクロ的、歴史趨勢的には、世紀を通じて年貢対象である米作の土地生産性は向上し、農間余業(木綿、養蚕、日雇・出稼)は相対的に貧しい階層、地域に現金収入をもたらした。土地生産性の上昇が年貢の定免制化と組み合わさればその余剰分が農家に残ることになり、農間余業所得には年貢がかからない(いわば非課税)ので、年貢さえ納めていれば、その分所得上昇となる。
 これらが市場機構の進展の原因および結果となり、三都(京、大坂、江戸)、地方を問わず、経済的余剰が被治者庶民層に相対的に有利に配分された。こうした全体水準の底上げは、当然上層庶民層に経済的実力を持たせる。そうなると(18世紀前半の徳川吉宗の、統治のための庶民教化策を一つの契機としながら)、上層庶民層に学芸を嗜好(志向)する、生活的余裕と心性が養われてくる。
 その一方で、武士下層の知識人は、吉宗による徳川統治機構の修正にも関わらず、やはり重い身分原則のもとで、地位とその承認を統治機構の中で実現できず、学芸、とりわけ、文芸にそのエネルギーを注ぐことになる。
 ここで、武士下層部分と庶民上層部分の、文化的な身分融解がおこり、これが18世紀後半の田沼時代、さまざまな学芸、文芸的奔流がおこる人的資源となった。

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2009年4月20日 (月)

19世紀徳川日本における民の力量の増大(1)

 18世紀末の寛政の改革は、松平定信の主観的意図とは別に、それまでにポテンシャル(潜勢力)として蓄積された民の力量を、社会の表面に開放する契機となった。

 こういうと「ちょっと待てよ」と訝しむ方もおられよう。何しろ、老中首座松平定信は、「白河の清きに魚も住みかねて もとの濁りの田沼恋しき」と揶揄された御仁。そんな儒教道徳(=封建道徳)の権化と目される権力者のやったことが、何故「民の力量」と関係するのか、と。だいたい、寛政異学の禁、って朱子学一尊なんだから、その封建道徳を上から注入しようってんじゃなかったのか、と。

 しかし、考えてもみられよ。孔子や朱子は、やたらと学ぶことを強調している。人は生まれによって貴賎上下が決まるのではなく、学びを通じて立派な人格になっているかどうか、が肝心であり、極論すれば(原理的には)人は誰でも聖人になれる可能性がある、と言うのである。これが、生まれ、門地、家柄、で人間の価値が決まるとする身分原理と真っ向から対立する思想でなくてなんであろう。したがって、身分原理が建前となっている徳川日本で、そもそも儒学やその一派の朱子学が(原理的に)体制教学になれるはずがないのだ。 〔次回へ続く〕.

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2009年4月12日 (日)

十九世紀徳川のビジネス・ソサイエティ化

 十八世紀末の寛政の改革を一つの分水嶺として、徳川社会には不可逆の構造的変化が訪れていた。それをひとまずビジネス・ソサイエティ化と呼んでおく。ビジネス・ソサイエティとは、この世に人として生まれてきた以上、どのようなことでも、個々になんらかの功業をなさねばならず、それが可能となるかどうかは最終的に己次第である、という心性が横溢している社会のことである。以下は関連しそうな書籍からの抜書き、引用である。

「私見では、寛政期(1789-1801)を境にして、知と情報のありようが大きく変化していくように思われる。」
 鈴木俊幸『江戸の読書熱』平凡社選書(2007) 、p.17

「十九世紀に入ると教育熱は一気に高まり、寺子屋が全国に誕生する。・・・。明治十六年(1883)の文部省が府県に命じて行った調査報告をまとめた『日本教育史資料』によれば、総数11237とある(石川謙『寺子屋』至文堂)。この数字が一人歩きしているが、調査漏れが数多あり、実態はこの数倍にな る。・・・。
 筆者のフィールドワークの体験から、最盛期には少なくとも一村に一つか二つは存在したと考えられる。天保五年(1834)の総村数は63562である。この数字以上の膨大な寺子屋が大小さまざまに読書き算用熱の時代の風にあおられて生まれた。」
 高橋敏『江戸の教育力』ちくま新書(2007)) 、p.20

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2009年4月 8日 (水)

「資本主義」なる言葉(3)

「用語としての capitalism は、どうやら一八八〇年代より早いものではなく、このころドイツ語の社会主義文書で使われはじめ、社会主義とは無関係の著作へと広がっていった。英語とフランス語においては、二〇世紀に入ってようやく使われはじめた。」
 レイモンド・ウィリアムズ 『完訳キーワード辞典』椎名美智ほか訳、平凡社(2002) 、p.48、「capitalism 資本主義」の項

 多少、このブログでの以前の議論を補強することにもなるので引用した次第。下記も参照されたい。

「資本主義」なる言葉

「資本主義」なる言葉(2)

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2009年4月 5日 (日)

B.ラッセル「怠惰への讃歌」(1932)

 ラッセルにこういうエッセイがあるとは、ついぞ最近まで知らなかった。当時の大恐慌下における一種の有効需要論ともなっている。

「近代の技術は、すべての人々のために、生活必需品を確保するのに必要な労働量を甚だしく減らすことができるようにした。このことは、戦争中にはっきりわかった。戦時には、・・・、戦争に関係ある政府の職務に従事するあらゆる男女は、すべて生産的な業務から引き抜かれたのである。こういう事実があったにもかかわらず、連合国側の未熟練賃金労働者の健康状態はよくて、その一般的水準は、戦前戦後よりも高かった。・・・。要するに、戦争は、生産を科学的に組織すると、現代世界の労働能力をずっと減らしても、それで現代の民衆に十分楽な生活を送らせることができることを証明したのである。それでもし戦争が終わった際、人々を戦闘や軍需品製造にふりむけるために創められた科学的な組織を持ち続け、労働時間を四時間に切り下げてしまったなら、だれもが好都合になっただろう。だが、そうならないで昔の混乱が再び起り、働く義務のある人間は、永い時間働くようにされ、残りの人は、失業者として飢えるままにほっておかれた。」
B.ラッセル『怠惰への讃歌』堀秀彦・柿村峻訳、角川文庫(1958)、p.13

「貧乏人にもひまをあたえるべきであるという考え方には、いつも金持はぞっとしていた。イギリスでは、十九世紀の初期をみると、十五時間が、ひとりの人間の平日の労働時間であった。子供でも時々同じ時間働いたが、一日に十二時間労働がごく当り前のところであった。世話ずきのおせっかいが、どうもこんな時間は長すぎるようだと言い出したら、仕事のおかげで、大人は酒を飲まなくなるし、子供は悪戯しなくなるといって反対された。私の少年時代のことだが、都会の労働者たちが選挙権を得た直後、公休日が法律で制定され、上流階級の非常な怒りをかったことがあった。或る老公爵夫人が「貧乏人たちは、休日でどうしようとするつもりだろう。その人たちは働くべきだ」というのを聞いたことを思い出す。今の人々はそうはっきりいわないが、これと同じ感情が残っており、多くの私たち現代の経済混乱の源となっている。」pp.14-15

 原文は、容易にネット上でアクセスできる。アメリカの緑の党や、ヨーロッパのアナーキストのサイトに掲載されているところが興味深い。以下はその一つから拝借したもの。比較的短いエッセイなので、全文(英語)を引いておく。

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2009年3月22日 (日)

徳川文明の消尽の後に

 徳川慶喜は、大正2年(1913年)11月22日に没した。享年76歳。1868年の時点で、彼は31歳であった。すると、不本意ながら人生の過半を、明治コンスティテューション下で彼は過ごしたことになる。さて、そうすると、慶喜は江戸人なのであろうか、それとも明治人なのであろうか。

 日本における国勢調査は、大正9年(1920年)から始まる。ということは精密な人口データはこれ以降であり、それ以前の人口に関するデータはそれぞれ推計しなければならないわけだ。それはちと面倒なので、第一回国勢調査のデータを使って、大正時代の年齢構成を調べてみよう。

 ちなみに、国勢調査の時系列データは下記から容易にExcelファイルとして入手可能である。

政府統計の総合窓口 GL08020101

 大正9年の総人口は、55,963,053人。そこから、15歳未満人口20,416,202人を差し引く。すると、大正9年の15歳以上人口35,546,851人が出る。これが大正9年の大人人口と言ってよいだろう。なにしろこの頃大抵の15歳は既に働いていたのだ。

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2009年3月21日 (土)

所得と雇用の分離 - 大恐慌への決め手

 現在、急激に日本経済が縮小している。特に、輸出の減少が著しい。その象徴が北米市場における日本車各社の急減である。昨年末から今年にかけて、軒並み、売り上げ半減となっている。

参照→「米大恐慌」と「現在の日本」の相違点と類似点(松岡幹裕氏)

 そのため、慌てふためく日本企業は一斉に労働者の首切りへと走っている。労働者の首切りは、ミクロの一企業だけが動くなら合理的だが、それが日本経済全体の動きだとすると、雇用減が労働者全体の所得を減らし、それが最終需要の消費を減らし、デフレギャップを拡大し、ますます日本経済全体を縮小させてしまう。いわゆるデフレスパイラルである。

 では、政策的てこ入れで雇用を増やせばよいのか。しかし、雇用を増やせば、それはなんらかの財・サービスの供給拡大を意味し、究極的には再びデフレギャップの拡大に貢献せざるを得ない。

 現今の急激なデフレギャップの膨張に必要な対策は、需要ないし消費のみの拡大である。つまり、生産は増やさずに、消費だけ増やす法ということになろう。すなわち、所得と雇用をどうにかして分離すること、これが究極的なデフレギャップの縮小策である。

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2009年3月20日 (金)

二つの貨幣論

 日本史家の著した貨幣論として注目すべきものに、

網野善彦「貨幣と資本」、岩波講座日本通史 (第9巻)1994、所収

がある。

「・・、十六世紀後半、畿内・西国で銭から米への転換があったこと、さらに太閤検地が石高制を基本にしたことを「現物経済への復帰」などとするのは全くの的はずれであり、これは長い歴史を持つ米の貨幣機能が西日本においてあらためて表面に現われ、統一権力がそれを国制として採用したと考えなくてはならない。」同上、p.241

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