身軽に問い、打たれ強く考える/ Ask agile and think resilient
弊ブログへの来訪者の皆様、旧年中(2020年)はこの盛り上がりにくい内容のブログを盛り上げて頂き、誠にありがとうございました。2021年も弊ブログをなんとか継続できますことを感謝致しますとともに、来訪者皆様のご多幸とご自愛を祈願いたしております。
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もし事実(である)が過去に属すなら、価値(であるべき)は未来に属すでしょう。それなら、現在は、事実と価値のあわい、「であること」と「であるべきこと」の中間、未分明の動的境界ということになります。
コロナ禍の影響が具体的に私の身辺に及び出したのは、今年5月のGWの頃でした。この緊急事態宣言下の足かけ二か月は本当にひどかった。二度とあんな事態は御免蒙りたい、と願っていますが、昨日今日の感染者数をチラッとみましたが、またまた雲行きが怪しくなっています。桑原、桑原。
ル=グウィン『影との戦い ゲド戦記1』(2009年)岩波少年文庫、p.39
Le Guin, A Wizard of Earthsea (The Earthsea Cycle), Chap.1 The Shadow
仕事がらみで、二つのテキストを読みました。
知人より本記事(1)に応答がありました。
「米国は宗教的国家である、あるいは宗教が「つっかえ棒」だから、容易に社会秩序は崩壊しないはずだ(アーミッシュAmishを見よ)」というご意見です。
バイデンが北米合衆国の大統領になるとしまして、それが日本全体にとって相対的に正負どちらの国益となるか、は今のところ、私に判断材料がないのが現状です。
※(1)に、長い追記をしたのが、いま一つ、わかりにくいと判断しまして、別記事(本記事)としました。悪しからず。(2020/11/3)
昨日、某読書会のたまり場である、某駅北口の喫茶ルノアールで、10月例会をしようとしましたら、そこがoutでした。そこで、しかたなく、南口の星乃珈琲店まで移動。それがOKというか、むしろ better でした。つまり、「怪我の功名」。
毎日の「今週の本棚」欄で、橋爪氏のものより面白そうだったのが、2点あります。
①マーガレット・アトウッド『誓願』早川書房、鴻巣友希子訳
②高橋博巳『浦上玉堂 白雲も我が閑適に羨まんか』日本評伝選 211 ミネルヴァ書房
先に、弊ブログで書評記事を掲載しました、関 良基『日本を開国させた男、松平忠固: 近代日本の礎を築いた老中』作品社 2020年07月15日刊に、橋爪大三郎氏が書評を寄せられました。
前回の記事では、少し説明不足でわかりにくいことにきづきました。本記事で少し補足します。
本記事に関連して、再び思考誘発的な質問がありました。下記。
Q,「テロリストが出てくるという事は、それだけ長州藩は民主化していたとも言えます。逆説的に言えば、幕末の時期にテロリストも出て来ない藩とは一体、どういう藩なのか。 」
本記事に関連して、鋭い質問がありました。下記。
Q,「中国や韓国は体制の学として(個人主義的)儒教を採用してきたというのは、どういうことでしょうか。これはまた別の儒学、あるいは儒教の中の一部、あるいは他の学との混血という事でしょうか。」
もう15年近く前に、この雑録表のver.1.4を公開しましたが、カテゴリーで「荻生徂徠」を新設するに伴い、埃をはたいてその ver.2を公開します。単なる生没年表ですが、この表の前後四、五人はほぼ同世代であることは間違いない訳で、同じ時代の空気を吸って生きていたということでもあります。そこに知的文脈を構成してみることは、「実験歴史学」あるいは、「アブダクション史学」の醍醐味ではないか、と愚考します。
(1)から続く。
「斬奸状」というものがあります。狂気にかられた暗殺者たちが、己の殺人行為の正当性を世間に主張するため、被害者がいかに「悪者」であるかを縷々書き記した文書です。これに関して、非常に面白い文献があります。下記です。
This article is translated with www.DeepL.com/Translator (free version). Please refer to the original article (our blog post "ロゴスという名のエコノミスト/An economist called by the name of Logos ( λόγος )") for details.
19世紀半ば、日本列島では、テロ、政治的暗殺が吹き荒れました。「暗殺の中から生まれた明治政府」(1)とはけだし名言です。
(1)『東アジアの弾圧・抑圧を考える ―19世紀から現代まで 日本・中国・台湾』春風社2019年12月、p.13「序」(岩下哲典氏筆)
また、同書所収、関良基「江戸末期の暗殺と明治の弾圧の言説分析ー「国体」「売国」「国賊」「大逆」」pp.129-164は、類編がない重要な論考です。是非ご参照ください。
このリストを見ての第一印象は、「小せぇ!」ということ。人間というか、肝が小さ過ぎでしょ。アーネスト・サトウ著『一外交官が見た明治維新』1921年ロンドン、が大日本帝国内では発刊から25年間もの間、禁書にされていた事態に比肩されます。戦前政府は、元外交官とはいえ、たかが一英国人の回想録に怯えていたのです。笑止千万。その程度で潰える権力なら地上から消えたほうがよい。そのレベルの肝の小ささです。
This article is translated with www.DeepL.com/Translator (free version). It is our blog post ("葬式仏教の歴史的意義/ Historical significance of funeral Buddhism" ) that introduced Masahide Bito's theory. Please refer to the original article for details.
なんで沖縄でコロナ感染が大問題になるのか不思議でしたが、21世紀日本においては、未だに、在日米軍基地および軍関係者が、「治外法権」であったことを失念していました。つまり、日本国政府の検疫体制の外に彼らはいます。
弊ブログ記事「西村玲氏(2016年ご逝去)を追悼いたします/ In memory of Mr. Ryo Nishimura (died in 2016) 」にコメントを頂きました。既に、コメント欄で応答を投稿したのですが、コメント欄ではもったいないと思い直し、改めて記事化して、再掲することと致しました。
夏目漱石(1867/慶応三年-1916/大正五年)は、よく言えばかなり内省的、悪しざまに言えばクヨクヨ、グチグチ考える質たちです。その面が fiction で発揮されると、私などは「もう勘弁!」となるのですが、essay になると俄然、そこが光ります。
承前
「数奇な」とは、まさにこのことなのでしょう。他所さまのブログのそれもコメント欄を介して、大事な言葉が(それと知れずに)託されていたことに気付くとは・・。この交流の場を提供して頂いているブログ主である関良基氏、西村玲氏へ導いて頂いた睡り葦氏、そしてこの「縁」を作ってくれていた故西村玲氏に感謝いたします。
前回投稿の近代日本の史家の生没年に引き続き、「代替案のための弁証法的空間 Dialectical Space for Alternatives」様での議論を、弊ブログ記事にて再掲します。
この数日間、ブログ「代替案のための弁証法的空間 Dialectical Space for Alternatives」様のコメント欄で議論して頂き、重要なご示唆を幾つも頂きました。その一つの成果(?)を弊ブログにも投稿することとします。
あるMLで、朴裕河(学者)、村田紗耶香(作家)、という名を紹介してもらいました。そこにコピー・ペーストして頂いた、amazon の朴裕河『引揚げ文学論序説: 新たなポストコロニアルへ』人文書院 (2016/11) をのぞき見しましたら、懐かしい名前に出会えました。
冷静に見直しますと、徳川日本270年間のドメスティックな慎ましさと打って変わって、大日本帝国77年間の海外膨張への狂奔ぶりには、かなり面喰います。落ち着きがなく、明日の見えない青年期に特有な、焦燥感といった風で、痛々しささえ感じてしまいそうです。
関口氏とウォルソール氏がそれぞれに「告発」していることは、近代社会こそが女性を抑圧する制度を作りだしていたにもかかわらず、それ以前の社会と比較すれば良いはずだという文明開化=進歩観に基づく「常識」によって、それを「隠蔽」してきたということであり、その「常識」が(おもに男性たちによって)現在にいたるまで踏襲されてきたということである。〔本記事後段の、澤井啓一氏書評より〕
前回の投稿にからんで、関 曠野の「プラトニズム」というのは、イタリアの Ficino を中心とする neoplatonismo や17C後半の Cambridge Platonists と関連があるか?、という質問をうけました。その応答を書きます。
Seki Hirono, "Plato and Capitalism," Revised 1996, Hokuto Publishing, pp.429-32, "Postscript to Revised New Edition"
(Translated by Google site)
私が読んだ版は21刷(2020年7月10日)です。かなり売れていますね。実際読んでみて売れる理由が少しわかった気がします。その読後感です。 では目次から。
文字の無い、あるいは文字が使われない社会を人類学では無文字社会とか、前文字社会とか言ったりします。この言葉を聞いて思いつくのは、例えば、アマゾンやボルネオ島奥地の密林で小さな集団(共同体)を作って暮らす、部族社会の人々でしょう。彼らはしばしば「現代において石器時代の生活を送る」といった形容がなされたりします。
鉄は人類が手にしている金属の中で最も有用なものの一つです。とりわけ構造物、小さなものならスマホから自動車、大きなものであれば、五百名以上搭乗するジェット旅客機、東京スカイツリーまで、外側が固く形のあるものは、ほとんど鉄が使われていると思われます。
私たち現代日本人は、農耕、と聞けば、直ぐ思い浮かぶのは、「米」、「稲作」ではないでしょうか。確かに、日本語で「ごはん、食べた?」と聞かれれば、「食事を取ったのか?」とも、「お米の食事を食べたのか?」とも受け取れます。それだけ、日本人と「米」は身近なものなのだと言えます。
以前から気になっていたことがあります。英語の奴隷(Slave)/奴隷制(Slavery)の語源が、スラヴ人(Slav)であるかどうか、です。自分なりにザッと調査した結果を記事化しておきます。
宣伝です。 雑誌(紙・活字メディア)に弊ブログ主(renqingこと、上田悟司)のロング・インタビュー記事が掲載されました。雑誌目次は本記事後半に掲載しました。 もしご関心をお持ちいただけるようなら、下記、編集部(連絡先メール・アドレス)までお問い合わせください。
問い合わせ先
:風餐編集部(府川さん) logos380@qd5.so-net.ne.jp
前回より
◆書評3 人間社会の「秩序」は、人間の「合理性」から生まれるか?(その4)
「第3部 合理性の限界とその帰結」への書評、の4回目です。いまだ第7章が続いて恐縮ですが、もう少しお付き合い下さい。
(Q)コピー機《は》故障していますから、あちらのを使って下さい。《》の中は何故《が》を使ってはだめか?
知人から二つ質問をうけましたので、私流の回答をこちらにも掲載します。
Q1「Robert Lighthizer 通商代表は、かつて日米不公平の通商協定を結んだことで、日本経済に相当な打撃を与えたか?」
Q2.「今の中国との貿易戦争もアメリカ覇権主義の一環か?」
「小学」(1187年成立)とは、朱子が門人の協力を得て編纂した、儒学入門書です。明治「学制」において、初等教育機関を「小学校」と命名したのは、このテキスト名に因みます。明治期に欧化が進行したという印象論の一枚の下で、実は朱子学化が本格的に進んだということです。以下、その evidence。
『21エモン』という漫画をご存知でしょうか。藤子・F・不二雄が1968年から1969年にかけて『週刊少年サンデー』に連載したSFコメディです。私は小学生の時分、その連載を読んだくちです。
「他ひとに愛想を盡かした私は、自分にも愛想を盡かして動けなくなつたのです。」夏目漱石『こころ』復刻版p.422、「先生と遺書」より
私は、小田和正の名曲「言葉にできない」(1982年)を聞くと、つい突っ込みを入れてしまいます。「言葉にできてるじゃん!」と。
僕は、高校生以来、幾度となく三島由紀夫『文章読本』1959年(中公文庫1995年)を読み返してきた。時折、何かの拍子に、脳裏を過(よぎ)るのは、「理性の酩酊」という、三島の泉鏡花評だ。
昔、三島由紀夫が小説とは「理性の酩酊」だと書いていました。
※三島由紀夫『文章読本』1959年(中公文庫1995年、p.57)の泉鏡花評。カテゴリー「三島由紀夫: 本に溺れたい」をご参照。
このところ、しつこく種苗法「改正」について本ブログにて取り上げています。ただ、実を言いますと、私の憂慮する点は、農水省が言いたがる、イチゴやメロンなどどいう、高尚な(美味しい、あるいは、儲かる)作物のレベルよりもずっと低いところにあります。こういうと笑われるかもしれませんが、いまや「死語」である救荒作物のことです。
徳川慶喜は、大正2年(1913年)11月22日に没しました。享年76歳。1868年の時点で、彼は31歳ででした。すると、不本意ながら人生の過半を、明治コンスティテューション(Meiji constitution)下で彼は過ごしたことになります。さて、そうすると、慶喜は江戸人なのでしょうか、それとも明治人なのでしょうか。
ひとは、善と悪、ともに選び得る。そこに人間が自由とともにこの「世界」に生まれでる存在的根拠がある。これが人間というものに対する私の基本的考え方です。このことは、すでに弊ブログ記事上でも折に触れて言明しました。
村上春樹『猫を棄てる ― 父親について語るとき』文藝春秋2020/04/25刊、102頁
ずっと前に、古本屋でしばらく働いていたことがある。だから、商品として村上春樹を買ったり、売ったりした。
「現実 reality」は、実は言説によって構成されます。なぜなら、ヒト以外の動物は、「身体」を進化させ、その「身体」にピッタリ fit した「世界」で生き延び暮らしていますが、ヒトはある時点から「身体」の進化を停止し、そのかわり言説によって構成された「世界」を構築し、その「世界」を進化させることで生き延びてきているからです。
コロナ禍の喧噪の裏で、日本のただでさえ脆弱な「農」と食料安全保障を、危機的な状況に陥れる法案がアベ政権によって国会に提出されています。種苗法改正案です。
もし、言葉を操る人々に、辛うじて世に存在する意味があるとするなら、どれほど絶望的な状況においても 、疲れている人々に代わって、幻(vision)を見、伝えることではないか、と思う此の頃です。
このブログで、コロナ禍の経済/社会への影響に関して、二つの記事を投稿しました。
①コロナ禍と経済循環 plague and economic circulation(2020/03/30)
②歴史実験としてのコロナ禍 Coronavirus shock as a historical experiment(2020/03/31)
20世紀の新儒家・梁漱溟(Liang Shuming)は、仏教徒として青少年期を過し、成人になってから士大夫御用達の儒家に開眼した人物ですが、彼は「仏家は生きるのが苦しい苦しいといい、儒家は生きるのが楽しい楽しいという」点が最も違う、と述べています。
歴史に見るカタストロフは、たいていダラダラと100年ぐらいかかっています。西ローマ帝国の消失もゲルマン人に強襲されたわけでもなく、実質的には平和的な移住地域の浸食/拡大でした。
(1)より
徳川家の大奥が政治的力を持っていた理由ですが、徳川末期、天璋院篤姫の輿入れの経過を見ると一つ判明することがあります。
「大奥の政治力」。この事実そのものについては、これまでのアカデミックな日本近世史学でも触れられる機会は何度となくありました。ただし、改革の反動勢力、あるいは政変に纏わるセックス・スキャンダルとして。
このコロナ疫禍は、少なくとも、21世紀の日本社会を一気かつ根本的に変えてしまう可能性を秘めています。5月になっても、緊急事態宣言がリスケして、なんだかんだで、半年くらい続くなら、これは日本社会全体に、肯定的であれ、否定的であれ、不可逆の変化をもたらすことは動かないと思われます。
バーリンは20世紀の最も重要な政治哲学者の一人です。彼はロシア帝国領下のユダヤ系バルト人として生を享け、ロシア革命の時に家族と共にイングランドに逃れました。多感な少年期に複雑な政治的事情に翻弄されるという人生経験を経て、結果的に後の慎重で、抑制のきいた、深い人間洞察に基づく政治哲学を形成します。
(1)からの続き。
愛と憎しみは、実は同じものです。対象への強い執着という点で。しかし、その表れはまったく逆のベクトルを指し示します。「愛」は、対象との一体化=肯定へと人を導き、「憎」は、対象の拒絶=否定へとひとを駆り立てます。
決定論(determinism)という語があります。非クリスチャンの日本人が気にすることはあまりない、ともいえるのですが、肯定的にも否定的にもクリスチャンであらざるを得ない西欧人にとり、21世紀の現在でも相変わらず悩みの種であり続けています。従いまして「近代化」が「西欧化」でもあった近現代日本人にとっても、他人事と放置するわけにもいかない事情がある訳です。
現在、世界経済が縮小している/縮小していく、のは多分明らかですが、マクロの経済循環が、実物的にも金融的にも、今回のように急激に縮小するとき、いったい、何が起こり、どういう経済的帰結が出現するかは、実は現在のアカデミックな経済学では、あまり研究されていません。だから、このコロナショックに際して、大学所属の経済学者や経済評論家にいたるまで、普段から言っているような、偉そうなご託宣を、誰も述べられないのです。
いま、コロナ騒動で、世界でも、日本でも生産/流通/消費の経済循環の回転速度が通常の数十%ダウンしていると見られます。
Isaiah Berlin は、現在のバルト三国の一つ、ラトビアの首都リガ(当時はロシア帝国領)で、裕福なユダヤ系(他にロシア系、ドイツ系も混じる)材木商に長男として生まれました。8歳でロシア革命に遭遇し、母親とともにロンドンに逃れます。おそらくロシア語とドイツ語のバイリンガルで、ヘブライ語が宗教用の第二母語でした。
「最善 best」や「最適 optimum」なるものがこの「世界 world」に存在し、人間はそれを手に入れることができる。これは、近代の驕り(Arrogant Modernity)だといえないでしょうか。
法の基礎異論、と言えば普通は、「法哲学」or「法理学」を指します。しかし下記の著者は。全く異なる角度から法の基礎について考察します。
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