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2005年5月13日 (金)

H.L.A.ハートの「自然法の最小限の内容」(H.L.A.Hart "The Minimum Content of Natural Law")

 自然法に関して、参考になる考え方としてH.L.A. ハートの「自然法の最小限の内容」があります。(H.L.A. ハート『法の概念』みすず書房1976年 p.211、H.L.A.Hart, The Concept of Law, Oxford UP,1961,p.189)

 そこに五つ指摘されていて、列挙すると以下のようになります。

1)人間の傷つきやすさ  Human vulnerability
2)おおよその平等性  Approximate equality
3)かぎられた利他主義  Limited altruism
4)かぎられた資源 Limited resources
5)かぎられた、理解力と意思の強さ  Limited understanding and strength of will

 いろいろ文句はつけ得ると思いますが、少なくとも私が最も納得いったのは、1)と2)、特に1)の「傷つきやすさ(vulnerability)」の指摘です。

 この人間性についてまっとうな感覚の欠落が、マスコミ・エリート(大新聞、テレビ局幹部)や学問エリート(大学教授)が、小泉首相がいう「改革には犠牲が伴う」といった言説に、うかうかと乗ってしまう遠因でしょう。

 大学人がそうであれば、当然、自らと似たものを再生産し、またそういった人々によって維持、管理されているリアリティで暮らし、ものを考えていると、小泉内閣の「今の日本には痛みを伴う改革が必要だ」という言説(妄説)が、いかにも硬派、かつヒロイック、そしてポジティブなものとしてお茶の間レベルにまで浸透してしまうことになります。

 またこういったリアリティの管理者たちに学べば、当然のごとく、

 人権、主権、法の支配、立憲制、、公共の福祉、等を観念論で考えているような概念化的反省知的認識の手前で、万人の非概念化的直知的理性により洞見されてる客在的な(自然)法的現実である 、(水波朗)

という法感覚を身につけようも''無い''法曹人(弁護士、裁判官、検察官)が、法学大学院などを通じて今後、大量生産される可能性(危険性)があることになります。そして、彼らは再び、その手の「リアリティの管理者」として日本の現実のリアリティ性(虚偽性)をあたかも不動の「現実」であるかのように構成していくことになる。

 何らかの、大学外のチャンネルを使った、「法学教育」ではない「法教育」を進めないと、庶民は「管理者たち」に幾度でも手も無くひねられる、という「現実」を崩せないという感じがします。

〔補注〕下記も参照されたし。
自然法と日本の憲法学
《憲法》を基礎付けるもの(1)
《憲法》を基礎付けるもの(2)
communicability(伝わりうること)と vulnerability(傷つきうること)

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コメント

岐阜無類堂さん、コメントありがとうございます。
 「立って半畳、寝て一畳」という言葉がありますが、自然法への一つの無理のない接近は、こういった人間のある種の平等性、対等性だろうと思います。どれほど強靭、凶暴でも、『血と骨』の金俊平の晩年を見れば、むき出しの力による他者支配には限界があることがわかります。「知の巨人」という表現もありますが、これとて相対的なものです。人間誰にでも備わっている道理への感覚、その道理を「現実」という名の、他者にコントロールされているかもしれないイメージで鈍らせないこと、これが自然法を考える出発点になると思います。

投稿: renqing | 2005年7月18日 (月) 03時42分

renqingさん、こんにちわ。
旧知の岐阜無類堂です。この場が読書好き諸氏によって実り多き議論が展開される場所になるよう、非力ながら思い至った時に意見を書かせていただきたいと思います。

自然法については熟考すべき重大なテーマであると思われますので議論が深まることを期待しつつ私見を書きます。
最近、ブックオフの100円コーナーで見つけた尾高朝雄「法の窮極に在るもの」(有斐閣)によれば、法の源泉には「法」か「力」の2種類しかなく、カール・シュミットはそれを「力」=政治に求め、「法」に淵源を求めるとすれば、それは自然法にしかないであろうという風に議論が展開されます。
では、自然法を法たらしめている要因とは何か?

これについてはこの本には詳細な議論はありませんが、やはり人間存在の矮小性に基づく倫理道徳(=他者への共感、他人が感じるであろう傷みは自分にふりかかった場合にも傷みを感じるであろう等)に帰着するというのが一般的な見解と思われます。
ハートが挙げた自然法の5要素はまさにこの点で納得できるものであり、法の源泉を自然法に求める論者の典型であると思われます。

政治家が「聖域なき改革」などと口走るのはまさに法の淵源を「力」に求めているのであり、それが徹底されるのであればそれなりに筋が通ったものと言えるでしょう。例えば、80年代にイギリスのサッチャーや日本の中曽根が押し進めた改革は、決して肯定はできませんが、これに当たります。
ところが、現在行われている改革は小泉の当初の勇ましい掛け声はどこへやら、官僚の権益は全く減らず、民間へのしわ寄せばかりが増えるという「力」にも「法」にも因らない日本的なしくずし的力学が相も変わらずはびこることが最大の問題です。
「人間の傷つきやすさ」に配慮を払わない政治の力を全否定はできません。ただし、特定層の人間にばかり配慮した政治力学だけは許すことができない、というのが私見です。

投稿: 岐阜無類堂 | 2005年7月15日 (金) 19時26分

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