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2005年5月 8日 (日)

吉田健一の中島敦評

「・・、叉かういう打てば冴えた音を發しさうに思へる程緊密に言葉を配置した文章を書くものが、その為にどんな苦労をするかは察せられるが、その苦労をすることが出來るものにとっては文学はさうした作品以外のどのようなものでもない筈である。」
                       吉田健一『作者の肖像』(吉田健一著作集、第16巻所収、1980集英社)

 ある人物の才能への評言として、これほど凄みのある言葉は、めったに見ることの出来るものではないと思います。この文だけでも、吉田健一の批評家・文章家としての力に脱帽です。参りました。

*下記も参照。

「・・・支那の文学が世界の近代文学と呼ばれてゐるものと同様に言葉による完璧な表現といふことを意識的に狙ふものだつたからで、そこに日本の近代 文学といふものに就て一つ考へて置いていいことがある。明治以後に日本に入って来た外国文学上の主張や傾向が色々ある中で日本に本式に消化されて結実した のが一般に近代文学と称されてゐるものだけであるのはその下地になるものがその前から既に東洋にあつたことを原因してゐる。我々が普通に近代的と考へてゐ ることが非常に多くの場合、我々が東洋的といふ言葉で表してゐることと同じであるのは近代の状態が古くから東洋にあつたことを示すものでなければならなく て、伝統の堆積と交錯、思索の徹底、精神の洗練による頽廃などがヨオロツパに近代が生じたのに就て挙げられてゐる理由であることを思ふならば、その前に東 洋に近代が来てそれが一つの伝統にさへなつて今日に及んでいるのは少しも不思議ではない。」

「・・・支那の文学の近代性が中島敦といふ一人の近代人の関心を惹いたとみるべき・・・」

ともに、吉田健一 『作者の肖像』 1970年(著作集第16巻p.177-178、集英社1980年、所収)

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