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2005年5月13日 (金)

自然法と日本の憲法学

 学術出版社の創文社が出しているPR誌で、「創文」というのがありますが、その2002年12月号に興味深い一文、「指月の譬え 後日譚:樋口陽一教授への手紙」*
がありました。

*水波朗「指月の譬え」2001年6月『創文』、も参照

 筆者は、水波朗氏で、元九大の法哲学者。
内容としては、要するに、

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 日本の主流の憲法学、法哲学者である美濃部達吉、佐々木惣一、宮澤俊義、 清宮四郎、黒田覚、芦部信喜、小林直樹、杉原泰雄、そして、樋口陽一等が、19世紀的な新カント派観念論の枠内(例えば、イェリネック、ケルゼン等)で事 を考えていて、20世紀に登場した様々な流派の存在論哲学に何の関心も持ってこなかった。しかし、新カント派観念論は数十年前に全世界的に死滅していて、 独、墺、佛、南米諸国、の多数の憲法学者は、今日では20世紀の存在論的諸哲学のいずれかに依拠して、現象学派、トマス主義派などとして憲法学理論を 展開している。
 いくつかに相分れながらもそれらの間には存在論としての共通傾向があり、人権、主権、法の支配、立憲制、、公共の福祉、等を、観 念論で考えているような概念化的反省知的認識の手前で、万人の非概念化的直知的理性により洞見されてる客在的な(自然)法的現実である、とする点で一致し ている。
(ここまでは、一部抜粋)
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ふう、学者の言葉使いはどうしてこうなのか、もう少しなんとかならんでしょうかね。
 ま、とにかく、その意味で、日本の憲法学界は世界と数十年間のギャップがあり、取り残されて恥ずかしいぞ、はやくこの事態に気づいて、追いつけ追い越せ、といった内容です。

 とここまできて、考えてみました。以前は、私も自然法って言うものを単なる知識、ないし、仮想上のフィクションと考え勝ちだったのですが、今ではそう考えては人間の権利についてかなり脆弱な考え方しかできないと知るようになっています。

 日本において、自然法的な考え方が弱いのは、日本の伝統的な文化の問題も絡むことではありますが、それよりも現代日本において深刻なのは、大学における法学教育が上記のような問題をはらんでいることにある、とも思うわけです。

 ちなみに、九大は、キリシタンの伝統からか、カトリック系の法哲学者が多く(現在でも)、西欧人がアメリカを植民地化している15、6世紀、先住 民インディアスの人間としての権利を擁護する法理論を展開したスペインのサマランカ学派のビトリア、スアレスの先駆的(孤高的?)研究者である伊藤不二男 を擁したところでもあります。

〔補注〕下記も参照されたし。
《憲法》を基礎付けるもの(1)
《憲法》を基礎付けるもの(2)
H.L.A.ハート(H.L.A.Hart)の「自然法の最小限の内容」

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コメント

Barl-Karthさん、どうも。

 少し前から、たまーに、blog拝見しております。裁判の裏事情には、抱腹絶倒もしばしば。バルト神学で鍛えられているBarl-Karth法哲学には興味津々ですが、今、「日本近世(early modern)の国家神学」に少々かかずらっております。そっちのほうが一心地つきましたら、レスなど含め遊びに伺うことと致します。

 ひょっとすると、たまに遊びに来ていただいている、かぐら川さんとは、ご活躍の場所とかご職業が共通しているように思いますので、ご面識があるかもしれませんね。単なる私の勘違いかもしれませんが。

投稿: renqing | 2007年9月12日 (水) 05時42分

 久しぶりに興味深い論考を読みました。2005年5月13日 (金)
のエントリなんですね。
 私もここ2-3年はカトリック自然法に惹かれており,ホセ・ヨンパルトや故 水波先生の論文などを折に触れて読んでいます。
 持病で一週間ばかり入院した折,「法の理論(成文堂)」(かなり同じトレンドの学者さんが論文を書いています)の水波先生の論文を読み,(創文社のエセーと同じ趣意のもの)痛く感動しました。私の学生時代は,やはり実証主義を基調とした法哲学-碧海純一等-が標準的でしたので・・・。
 そういう話題も自分のブログで書いていますので,つたないものですが,お暇な折に読んでいただければ幸いです。

投稿: Barl-Karth | 2007年9月12日 (水) 00時47分

かぐら川さん、どうも。
 私も別に学界に身をおいているわけでも、たいした義理があるわけでもない、一門外漢にすぎません。位置的には、かぐら川さんと対等であるように思います。端倪すべからざる本読みとして、かぐら川さんと並ぶ、とは恥ずかしくて申し上げられませんが。
 水波朗の議論は、日本の憲法理論学界の歴史的問題点を明示化するための挑発的なものと考えれば、やはり意味があると私には思えます。これまでの日本の法学の世界が、東大、京大ともに概して「自然法」的なものに冷淡だった理由としては、水波の問いかけは大きく違えていない、というのが私の評価です。
 だいたい、伝統的に日本の知的風土は、洗練された富永仲基の三教批判、無粋な本居の漢意(からごころ)非難などを見ても、大理論をイデオロギー批判することに昔から長けています。この知的土壌に育った、何事にも疑問の眼を向ける「信じない」派の頭の良い秀才が、すぐさま新カント派の強力な批判力の虜になるのは避けられません。その一方で、「信じたい」「信じられる拠り所としての真理が欲しい」派の秀才は、マルクスのグランドセオリー+イデオロギー批判にいかれてしまうという結末になったのだろう、と思われます。
 ルソーを初めとする人類の古典は、学者だけのものでは当然ありません。人類全体の遺産です。だからこそ、学者の解説が例えなくとも、普通の人々に訴えかける力があるのだと思います。それに比べると、ドイツ系の知的巨人たちは、いかにも「学者」「学者」しているので、言い方も難しく、その方面のターミノロジーに習熟した「学者」に解説してもらわないと、なかなか私のような素人には分かりがたい。
 かぐら川さんに、ルソーを論じて戴いて、ご自身のサイトなどに掲載して戴けると、私など助かります。

投稿: renqing | 2007年1月16日 (火) 03時43分

先日は、拙コメントにレスを有り難うございました。
日本音楽史における「軍楽隊」の位置については、本格的な検討が必要――というよりはとてもおもしろそう!――と思います。

(以下、ひとりごとそのものの落書きです。)
どこからなにを書けばいいのか迷ってしまいますが、美濃部達吉から樋口陽一までここに書かれている人たちを「新カント派観念論」という名でひとくくりにしてしまう水波氏の議論もいかがなものか、とまず思ってしまいましたが、問題は、新カント派VS自然法ということなのだろうと思います。といっても、ウェーバーもふくんだ新カント派について私にはなにも語る資格はありません。
幸い私は学界という場に身をおく人間ではないので、そうした場での基調というものから自由に発言させてもらえれば、近代的自然法とウェーバーの親近性こそを日本の一部の学界は前提としてきたのではないかと思えてなりません。大塚=ウェーバーのZauber(魔力と魅力)が社会科学全体に与えたものの一つかも知れません。
これも学界というものと無縁の人間の不届きな発言かも知れませんが、大塚は大塚、ウェーバーはウェーバー、カントはカント、ルソーはルソーとしてそれぞれの全体を読む作業をもっとしたいと思っています。私など、しがないルソー読みの一人として、数年前まで友人とルソーを読んできましたが、(そしてある理由で中断はしていますが)教科書的なルソー観や自然法論を超えたところにルソーの何にもまさる魅力があって、自分の社会を見る目も、ルソーの複層的自然法――自然法〔前〕的、〔超〕自然法的な――を共有しつつ克服しつつ育てていきたいものだと思っている次第です。

〔追記〕
Weberの「法」の日本の学界における未消化の問題については、少し異論がありますが、別の機会にしたいと思います。

投稿: かぐら川 | 2007年1月16日 (火) 00時17分

もも様、追伸です。

カソリックの方が以下のようなサイトを公開してました。ご参考まで。

「正義と平和へのアピール」
http://peace-appeal.fr.peter.t.nishiyama.catholic.ne.jp/newindex20.htm

投稿: renqing | 2005年5月21日 (土) 02時06分

ももさん、コメントありがとうございます。

 「現代の課題と切実に直面して、トマスを読みぬいた方の著書」でしたら、ジャック・マリタン、Jacques Maritain(1882-1973)、でしょう。「フランスのカトリック思想家,現代トミズムの代表的哲学者」(稲垣良典)との評価です。創文社から『人間と国家』(1951)の翻訳が出ていて、持っていますが、積読はおろか「仕舞っておく」状態で内容を紹介できません。ごめんなさい。ただ、自然法と国家の議論がしてあって、それを読みたいがために入手したはずです。一度図書館で当たってみてください。

投稿: renqing | 2005年5月21日 (土) 01時50分

はじめまして
 ももと申します。
 本に溺れたい様が、紹介されている「自然法」をめぐるお話、とても参考になります。
 「法」についての議論を読んでいて、トマス(トマス・アクィナスだと思いますが)に出会うたびに、トマスの著書をめくりながら、ため息をついています。
 トマスが直面した切実な課題、トマスが突き当たった存在をかけた課題を抜かして読んではいけない本なのだ、というため息です。
 しかし、法とりわけ「自然法」を直感するとき、トマスを避けていることはそろそろ無理なのか、などと思いあぐねています。
 入門書というのは、いかがわしいことが多いので止めます。
 現代の課題と切実に直面して、トマスを読みぬいた方の著書をご存知でしたら、教えていただきたいと思い、コメントならぬメールを差し上げました。
 本に溺れたい様への礼を失していないことを、祈ります。

 追記
 私の旧知の友人に、本に溺れたい様と瓜二つの雰囲気の方がいます。
 余計なことを書きました。

投稿: もも | 2005年5月19日 (木) 12時59分

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