同輩たち(equals)の統治
かつて、人間は、二種類いると信じられていたと思います。支配する者と支配される者です。支配する者は、武力、富、教養、統治の技術を独占していました。彼らの眼には、おのれ以外の人々は、単に彼らに支配され、富を収奪される対象としてのみ映っていたでしょう。その場合、「公」もその支配する者たちに独占されていたと思います。なぜなら、人間社会全体のことを考える能力も諸種の力も、支配するもののみが持ち、支配されるものたちは「公」を担う能力も資格も持ち合わせていない、と支配者たちは考えるからです。「かわいそうだから、我々が面倒みてやらずばなるまい。あのものたちは自分の世話が焼けないのだ。」と言うわけです。この支配者の論理は、おそらく、前近代において、地球上至るところに同様なものだったと思います。
しかし、人類史上、一回だけ、ヨーロッパにおいて、この人類に普遍的に共通していた、支配者たち-被支配者たち(them and us あいつらとおれたち)という二分法の秩序様式が転倒されるという破天荒なことがおきました。宗教改革です。なぜなら、人の行いにおいて、何が神の名におい て義であるかは、〈us 俺たち〉一人一人が聖書に基づいて判断できるし、しなければならない。それが〈us 俺たち〉の神に対する義務だ、と言い出す宗教者たちが出てきたからです。これは、〈二種類の人間〉という観念によって正当化されてきた支配=秩序様式を転 倒すると同時に、支配者たちによる〈公〉の独占をも破砕してしまいました。〈みんなのことを考える事ができる能力と力を持つものが公を担う資格がある〉と するなら、神の前において、一人一人が義を判断でき、かつ判断しなければならない〈us 俺たち〉こそ、〈公〉そのものじゃないか、という論理です。
それから約500年かけて、人間としての同輩たち(equals)が、政治的秩序をいかに形成できるか、の試行錯誤を続けて今日に至っています。 そして、今、人類は、アナーキックなテクノロジーの進展を利用した工業化によって、改めて、ネガティブに人類(=俺もお前も)を意識せざるを得ない状況に 来ています。神の死のあとに、自分たちの死の影に怯えるとは、なんという皮肉でしょうか。
ネガティブなものであれ〈俺もお前も人類〉に直面しているこの機会を、神なき現代の〈公〉の再建の出発点に据えざるを得ないと考えます。ただし、 現代日本では、未だ明治の御世が終わっていません。実に今年は明治138年。能力に限界があり、傷つきやすいと言う意味で、所詮、人間は一種類しかいない はずにも関わらず、〈二種類の人間たち〉という観念が再生産され続けています。その根源が天皇制と言えます。人間としての同輩たち(equals)の統治 を実現するには、日本人の手でこの問題に決着をつけ、新憲法発布とともに新たな時間軸をつくる(人民暦?)ことも必要と思えます。
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