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2005年10月26日 (水)

生者が死者と向き合うとき

 生きている者は、死者といかにして向き合うべきか。

 人は生まれ、人は死ぬ。いかなる人間も死を避けることができない。いま生きている我々もいずれ死ぬのだ。

 ならば、どうせ死ぬことを運命づけられているなら、いっそのこと生まれてこなければよかったのだろうか。なぜ、死すべき運命にあるのに、我々は生まれてきたのだろうか。

 いや、我々に死があるからこそ、生まれてきたのだ。不死なるものがこの世にあるとすれば、その生は、不変の単一色に染め上げられた現在の永遠の繰り返しでしかない。我々は死を運命づけられ、その旅の終わりを思うからこそ、今の生を輝かしく生きられるのだ。死によって限られ、生は賛美されるものとなる。

 では、他者の生の中断としての死と、我々はどう向き合えばよいのだろうか。 生きている者は、他者の死といかにして向き合うべきか。

 終着地としての死によって、生が賛美されるものとなるのであれば、他者の、生の中断としての死を、我々は悲しまなくてはならないだろう。その死を悼(いた)むこと。他者の死を、素直に悲しいと感じること。それが生者の、死者に対する義務となる。

 他者のあり得たかもしれない生を愛(いと)おしみ、それを尊いと思い、その死を嘆き悲しむ。これが残された生者の義務ではなかろうか。それが他者の死を悼むことではないのか。

 靖国神社は、死者を選別し、その死を顕彰する。視線は、その人の死にあり、生にはない。これで真に死者を鎮魂できるであろうか。死を賛美するのであれば、その中断された生を嘆き悲しむことは禁じられてしまう。これでは、その魂を慰めることにならないだろう。

 死者の生を愛(いと)おしみ、その死を悲しむこと。これがこの世に残された我々が死者になしうる鎮魂なのだと思う。

*参照
アンティゴネ

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