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2005年10月28日 (金)

法の論理

 法について、「自力救済」、や「御成敗式目」をめぐってちょっと書こうと思ったのだが、とてもではないが数十分でかける代物ではないことに気がづいた。この件、捲土重来を期す。今は他者の言説を引用することで、責を塞ぎたい。上記は、勝俣鎮夫『一揆』 (1982年) (岩波新書)と、石井紫郎『日本人の国家生活』1986年、を再論するときに試みるつもり〔上の二冊の読み合わせにご関心のある向きは、笠松宏至『法と言葉の中世史』1993年、も併読されることを勧める〕。以下、引用。

東京裁判にせよ湾岸戦争にせよ、唯一ありうる論理は、「自由で公正な討論による社会の進歩を妨げる者に対しては、力による制裁も辞さない。そしてこうした力の行使だけを正当と認める」という論理である。そしてこれこそ、法の論理にほかならない。
関曠野『歴史の学び方について』窓社1997、p.21-22

「法は最小限の道徳」とは、十九世紀ドイツの法学者ゲオルク・イエリネックの有名な言葉である。しかし、国際法を含む人類の法制定の歴史は、イエリネックのこの言葉が不十分なものであることを示している。
同上、p.22

法は実力と道徳のせめぎ合いの上に成立している。そして法の歴史は、最大限の力と最小限の道徳から最小限の力と最大限の道徳への、たゆみなく辛抱強い歩みを証言している。法の歴史は、力から道徳への人類の教育過程にほかならない。力による裏づけなしには法は効力をもたない。しかし法を法たらしめているのは、いつの日か人類は力ではなく道徳によって社会秩序を維持するに至るであろうという希望なのだ。法とは、この希望の別の名なのである。
同上、p.22

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