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2006年1月 3日 (火)

明治エリートの起源

 明治期の爆発的な西洋文明導入が誰によって担われたか。それは無論、海外への留学生たちである。彼らの実態は、旧幕時代、徳川幕府、諸藩競って送り出した海外留学生だ。その数、152人。

 実体のない幽霊のような明治クーデタ政権の内実を埋める作業をしたのは、当然、明治クーデタ政権によって創出された秀才たちではなく、旧幕世代にならざるを得ない。その際重要なのが、世代の計算。徳富蘇峰が恨めしげに使う「天保生まれの老人」がヒントになる。

天保年間      文久元年(1861)の満年齢   明治元年(1868)の時の満年齢

1830年生まれ   →   31歳         →  38歳
  ↓
1844年生まれ   →   17歳        →  24歳

初代総理大臣、伊藤利介こと俊輔、改め博文などはその典型だ。
 文久3年(1863)3月(22歳)  渡英
 文久4年(1864)6月(23歳)  帰藩
馬関戦争がなければ、このタイミングで帰国はしなかったろう。

「哲学」等の発明者、西周の場合はこうである。
 文久2年(1862) 幕府派遣留学生としてオランダに留学(津田真道も)。
 慶応元年(1865) 帰国

 ついでにいえば、文久・慶応(1861‐68)のころから、諸藩の藩校が、庶民の子弟を入学させたり,蘭学や,さらにすすんで広く洋学をとり入れていく。

 刑吏の父を持つ中江兆民が門戸を開放した藩校致道館の設置によって勉学の機会を得たのも、文久2年(1862)で、その3年後の慶応元年(1965)には藩留学生として長崎に派遣されている。

  まとめるとこうなる。

 明治前半期の西洋の制度・物質生活の猛烈な導入は、人的資源の面からいうと、実は明治クーデタ政権に負うのではなく、その過半は徳川期に播かれた、幕末留学生ないし、門戸開放された藩校システムという種が結実したものである、ということ。

 逆に、大正末年から昭和初年(1925-1930)に40歳前後で、官僚や学者、ジャーナリストとして中核を担っていた世代は、明治憲法発布(明 治22年1889)前後に生まれ、完全に明治学制の中で孵卵した世代の中のエリートだった。ま、おしなべて明治体制エリートに悪党は多いのだが、わけても この世代の連中が、対中国戦争を拡大し、あまつさえ、対米戦争をおっぱじめた張本人たちである。

 エリートのエリートたるゆえんは、世の尊敬と特権を享受するかわりに、国家理性の中核として、いかなる手段を駆使しても国家の安泰を図る能力の保持者である ことだ。その国家経営エグゼクティブとしても、彼らの勤務評定は失格相当であることは明白。明治学制のエリート教育は大失敗だったと断言できる。*

*参照サイト
年末の新聞記事が象徴する今の日本(元レバノン大使天木直人氏の執筆)

**私の先行記事も参照して戴ければ幸甚。
明治

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コメント

了解です。処置しておきました。本年もよろしくお願いします。

投稿: renqing | 2006年1月 6日 (金) 03時40分

こんにちは
<中江兆民>偶然同じ人をとりあげました。それで二重にTBをしてしまいました。申し訳在りません。片方は消してください。

投稿: ましま | 2006年1月 4日 (水) 20時25分

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