藤原正彦 『国家の品格』 新潮新書 2005年(9/最終回)
藤原氏は、人間は二種類いる*、と信じているらしい。引いてみよう。
p.83**
「・・・。過去はもちろん、現在においても未来においても、国民は常に、世界中で未熟である。したがって、『成熟した判断が出来る国民』という民主主義の前提は、永遠に成り立たない。民主主義にはどうしても大きな修正を加える必要があります。」
p.83
「・・・。真のエリートというものが、民主主義であれ何であれ、国家には絶対必要ということです。この人たちが、暴走の危険を原理的にはらむ民主主義を抑制するのです。」
うーん、この伝で言うと、エリートと国民は異なるものといえる。すると、文字通り解釈すれば、エリートは《非-国民》となりそうだ。でないとすれば、国民とは《人間》一般の別名か。藤原氏の大好きな自然科学的見地から言っても、現代に生存しているホモサピエンスは一種類で、同一のDNAをもっているはずだが。さらに引いてみよう。
p.84
「 真のエリートには二つの条件があります。第一に、文学、哲学、歴史、芸術、科学といった、何の役にも立たないような教養をたっぷりと身につけていること。そうした教養を背景として、庶民とは比較にならないような圧倒的な大局観や総合判断力を持っていること。これが第一条件です。
第二条件は、『いざ』となれば国家、国民のために喜んで命を捨てる気概があることです。この真のエリートが、いま日本からいなくなってしまいました。
昔はいました。旧制中学、旧制高校は、こうした意味でのエリート養成機関でした。」***
これで少し了解。国民とは庶民のことらしい。すると藤原氏の言を素直に解釈すれば、以下の等式が成り立つ。
人間 = エリート + 庶民(国民) ---- ①
それで藤原氏が言いたいのは、推察するに以下のようなことであろうか。
《庶民は未熟でアホのため、よく間違えるし、失敗する。だから、民主主義の「成熟した判断が出来る国民」という前提は成立しない。しかし、エリートは成熟し、間違わず、失敗しない。したがって間違えがち、暴走しがちな国民主権国家には、それを抑制する“真”のエリートが必要不可欠である。》
そこで少々考えてもらいたい。虚心坦懐に自らを振り返り、いくら己が優秀な人間と自認していても、生涯において一度たりとも、しくじったことは無い、と断言できる人間はこの世にいるのだろうか。無論、藤原氏はそうではあるまい。現にこのような愚書をものしている。
だとすれば、間違え失敗するのは、庶民の専売特許ではなく、人間そのもの本質であることになろう。とすると、等式①が②のように変形できる。
(間違え得る)人間 = エリート + (間違え得る)庶民 ---- ②
すると、さらに変形できる。
(間違え得る)人間 =(間違え得る)エリート +(間違え得る)庶民 ---- ③
この式をジッと見つめると、変な感じがする。なぜなら、式③には著しい重複があるから。数学が有する美学は、重複、冗長さを嫌う。端的にそれを醜いと判断し、誤とするのだ。つまり、こう変形できる。
(間違え得る)人間 =間違え得る(エリート + 庶民) ---- ④
↑ここは分配法則(^^v
同じように、間違いを犯しうるのがエリートと庶民なら、人間をその二つに分割すること自体が冗長であり、重複だ。したがって、もともと、人間をエリートと庶民にカテゴリー分けすることが有効ではなかったわけだ。
さらに、エリートの第一条件である“何の役にも立たないような教養をたっぷりと身につけている”を、藤原氏自身に当てはめてみよう。彼にこういう言がある。
p.14
「文化的洗練度の指標たる文学を見ても、万葉集、古今集、枕草子、源氏物語、新古今集、方丈記、徒然草・・・・と切りがありません。この十世紀間における文学作品を比べてみると、全ヨーロッパが生んだ文学作品より日本一国が生んだ文学作品の方が質および量の両面で上、と私は思います。」
そうかぁ、知らなかったぁ。私は教養がないので、他者の文言を引くことを寛恕戴きたい。
「・・・支那の文学が世界の近代文学と呼ばれてゐるものと同様に言葉による完璧な表現といふことを意識的に狙ふものだつたからで、そこに日本の近代文学といふものに就て一つ考へて置いていいことがある。明治以後に日本に入って来た外国文学上の主張や傾向が色々ある中で日本に本式に消化されて結実したのが一般に近代文学と称されてゐるものだけであるのはその下地になるものがその前から既に東洋にあつたことを原因してゐる。我々が普通に近代的と考へてゐることが非常に多くの場合、我々が東洋的といふ言葉で表してゐることと同じであるのは近代の状態が古くから東洋にあつたことを示すものでなければならなくて、伝統の堆積と交錯、思索の徹底、精神の洗練による頽廃などがヨオロツパに近代が生じたのに就て挙げられてゐる理由であることを思ふならば、その前に東洋に近代が来てそれが一つの伝統にさへなつて今日に及んでいるのは少しも不思議ではない。」
「・・・支那の文学の近代性が中島敦といふ一人の近代人の関心を惹いたとみるべき・・・」
ともに、吉田健一 『作者の肖像』 1970年(著作集第16巻p.177-178、集英社1980年、所収)
藤原氏の言う、十世紀間とは、5世紀から15世紀のこと。これは隋唐朝の少し前から明朝までの中国古典文学盛期といえる時代である。質量とも圧倒的なものがあり、藤原氏の挙げる日本古典文学中、中国古典文学の影響なしに成立し得たものは一つとしてない。だから、藤原氏はこう言うべきだったのである。
《この十世紀間における文学作品を比べてみると、全ヨーロッパが生んだ文学作品より日本一国が生んだ文学作品の方が質および量の両面で上であり、中国はさらにその上だと私は思います。》
さきの引用は、英文学者吉田健一からのものである。父は吉田茂、母方の祖父は牧野伸顕、曽祖父は大久保利通で、ケンブリッジ大中退だが、フランス語にも堪能でヴァレリー全集の訳者にも名を連ねている。藤原氏の好みから言えば、正真正銘のエリートだろう。これが中国文学者の言なら手前味噌にしかならない。しかし、吉田はヨーロッパ人文学の教養で知的に武装したばりばりのエリートである。怪しげな教養を振りかざす藤原氏より、遥かに信が置けると思うがどうだろう。この一事をもってしても、藤原氏が《たっぷりと身につけている》のは、《何の役にも立たない》、手前勝手な(つまり‘自由’な)思い込みであると推定できる。
また、エリートの第二条件は、《『いざ』となれば国家、国民のために喜んで命を捨てる気概があること》で、旧制中学・高校があった頃の《昔はいました》とのことだ。はてそうすると、日本が昭和20年8月15日の敗戦と廃墟を迎えたとき、日本を指導していたはずの何万という旧制中学・高校出身のエリートで、《国家、国民のために》、この敗戦を自己の責任と感じ、《命を捨てる気概》があったものは、はたして何人いたのだろうか。阿南陸相は天皇への責任から割腹して果てたが、高級官僚や、閣僚経験者といった政治エリート、学者等の知的エリートで、それほど高尚な《気概》を示してくれた人物がいたなどという事実は寡聞にして私は知らない。ここには、江戸期の武士が保持していた護民官としての責任感のかけらも見られない。
藤原氏(の著書)のような虚仮(こけ)おどしとはったりで塗り固めた似非(えせ)エリートよりも、以下のような叱咤のほうがより本質的にエリートらしさを私は感じる。
保天下者。匹夫之賤。與有責焉耳矣。
顧炎武『日知録』(17C.中葉)****
書き下せば、 「天下を保つ者は、匹夫の賤、与かって責め有るのみ。」
これを訳せば、 天下を保持するのは、一人一人の人民が関与して責任を持たねばならないことなのである。つまり、人間世界の道を守ることは、匹夫にさえその責任があるのだ、しっかりせぇ、匹夫、っていう意味だ。
極めて、だらだらと長くなってしまったが、これで終わろう。この書と付き合って、私の人生に有意義だったか、と自らに問うとなんとも判然としない。しかし、このような愚書が多少なりとも、知的なマーケットで流通してしまうことを見過ごしてしまうのは、私の人生を辛うじて支えている《せめて、知的に誠実であろうとすること》という信条にとって耐え難かった。蟷螂の斧ともいうべき独言に過ぎないが、この藤原氏の著書を読まれる方に、多少なりとも参考になるものがあれば、私の徒労にもいささか益があったことになろう。
*同輩たち(equals)の統治、参照。
**頁数のみで書名等の注記がない限り、引用は、下記の藤原氏のものである。
藤原正彦 『国家の品格』 新潮新書 2005年
***明治エリートの起源、参照
****天下を保つ匹夫(顧炎武)、参照
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