藤原正彦 『国家の品格』 新潮新書 2005年(3)
もうそろそろ、この作業を終わりにしたいのだが、あと2回だけ試みる。
藤原氏は第三章「自由、平等、民主主義を疑う」と書いている。
彼のいの一番で疑っている《自由》に関する記述を見てみよう。
p.67
権力を批判する自由さえ完全に確保されれば、他は制限されていい。そもそも、嫌な奴をぶん殴ったりする自由もないし、道端で立ち小便する自由もない。私には諸般の事情から愛人と夢のような暮らしをする自由すらない。ほとんどの自由は廃棄するまでもなくあらかじめないか、著しく制限されているのです。欧米が作り上げた「フィクション」に過ぎません。
この記述は、意図して、二つの《不自由》を混在させている。わかり易い例を挙げよう。
昨年だったか、数十年間、無事故無違反で運転していた無免許の老ドライバーが捕まったというニュースが流れた。数十年間無事故無違反ということは、常識的には超優良ドライバーであろう。ゴールド免許ものである。
この老ドライバーには、自動車を運転する《自由》はあるのだろうか。
1)自動車を運転する能力 ability は、充分すぎるほどある。合法ドライバーより優秀だろう。この意味では、彼は《自由》に自動車を運転できる。
2)しかし、あるルール(この場合は、道路交通法)下では、この老ドライバーは運転する《自由》は制限されている。私有地の野っ原なら、ルールに抵触しないが、道路交通法上の道路では違法行為となる。この意味で、彼は《自由》に自動車を運転できない。
もうお分かりだとは思うが、藤原氏の挙げる例を引いてみよう。
「嫌な奴をぶん殴ったりする自由」
これはルール上、道徳上、許されているかどうかという問題であって、これを《自由》とは、普通いわない。そして、古今東西、こういう自分の思い通りにならないとすぐ暴力に訴える人物は、文明化されていない《野蛮人》と言われ、法がなければ、蔑まれてきた
し、法があれば、後ろに手が回る御仁である。見苦しい野郎だ。
「道端で立ち小便する自由」
これもルール上、道徳上、許されているかどうかという問題。だから、これを《自由》とは、普通いわない。現代では軽犯罪法違反だろう。また、放尿している本人は一大愉悦境であっても、その姿を傍から眺めれば、醜悪この上ない。藤原氏の言葉を借りれば、「美し」く
ない。そんなものは無人の荒野で御《自由》にやってくれ。他人様の眼に触れるところでやるな。
「私には諸般の事情から愛人と夢のような暮らしをする自由」
これは、さきの自由の二つの意味から解釈できる。つまり、《甲斐性なし(カ
ネ、精力、美貌etc.)》なので、「できない」から《自由ではない》のか、藤原氏がご自分の配偶者との間で厳密な浮気禁止のルールを定めており、ルール
違反が判明した時の配偶者による制裁 sanction が恐ろしくて「できない」から、《自由ではない》のか、の二つである。
はて、ここまでくると、藤原氏の「自由」を巡る文はほどんど、与太話か、酔っ払いの戯言、に等しい。この調子でJ.ロックまで引き合いに出すのだから恐れ入る。それに対するコメントは次回に。
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コメント
弓木さん、どうも。 ご指摘の、reciprocity 相互性の問題は別記事にちょこっと書きました。そして、自由、平等が「法の下で」の問題であることも、このシリーズの(5)で触れましたので、参照してみてください。
> 論題にされている本の著者は、どうも自由は「ワガママ」で、権利は「何しても勝手」という捉え方みたいですね。そうじゃないって、たしか小学校の社会科くらいでも習ったように覚えてるけど。
いえ、日本伝来の「自由」観念は、自由狼藉、のようにネガティブな意味でした。今でも、その意味が日本語文脈には残っています。保守派はそれを捉えて、難癖をつけてくるわけです。
libertyは、西洋中世社会では、貴族の自由(王の恣意的裁判権や恣意的課税からの自由=同意なしには課税なし)、都市民の自由のように、身分的特権を意味していました。こういった身分的特権、実は被造物として当然の権利(王も被造物だから)を、すべての被造物に広げる運動が身分制社会打破のもう一つの側面だったわけです。こういった、宗教的側面をスッポリ抜かして、のっぺりした理解をしているのが現在の社会科教育です。そりゃあそうです。近代天皇制と「神の法の下の生得権としての自由、平等」は両立しませんから。まともに教えたら矛盾してしまい、生徒に指摘されたら答えられません。
投稿: renqing | 2006年2月13日 (月) 03時23分
こんばんは。僕はハヤリものは興味ないので、この本も読んでないけど、「自由」とか「権利」について誤解してる人って多いですよね。
「自由」とは、人が誰かに無条件で隷属しない-ということ。また「権利」とは「義務」の対価で、もし人が何かの義務を負わされるなら、そのぶん要求できるものがある-ということだと思います。言い換えると、「権利」を認められない人は、それについて「義務」も負わなくてよろしい-ということです。これは「互酬契約」の思想です。
論題にされている本の著者は、どうも自由は「ワガママ」で、権利は「何しても勝手」という捉え方みたいですね。そうじゃないって、たしか小学校の社会科くらいでも習ったように覚えてるけど。
投稿: 弓木 | 2006年2月10日 (金) 03時38分