藤原正彦 『国家の品格』 新潮新書 2005年(6)
ロックの言明で重要な部分は、人間の諸権利が自然法の下にあるという点の他に、もう1点ある。
‘as they think fit’
「自分の考え一つでよしとしたところにしたがって」
という部分である。
他の著者から一文を引用しよう。
「・・・、人間は自らの善悪の判断に基づいて政治的決定を行う自由な存在だからにほかならない。自然権とは本質的に、自由に政治的な決断と選択を行
う権利なのである。人間は各自の善悪の判断に基づいてこの権利を行使する。それゆえに、自然権論が説く意味での自由とは、人間は善悪を自主的に判断する能
力を等しくそなえているという主張に等しい。自然状態における人間は、ホッブズにとってはジャングルの掟に生きる狼であったのに対して、ロックにとっては
私的裁判官なのである。」
関曠野 『歴史の学び方について』窓社1997、p.77-78
しかし、その一方で、人生経験と過去の歴史が教えるように、個人は後悔しがちであり、人間は過ちを繰り返す。つまり、人間が理性的存在であってもかなりのところ不完全なのだ。
「人間は生得観念などもたない存在、その能力において深く制約され過ちやすく落ち着きのない存在であるからこそ、不断に経験をつうじて学ばなければ ならない。ロックが人間理性の可謬性を強調するのは、人間を学習する存在としてあらわにするためなのである。」同上、p.106
「こうしてみれば、『人間は制限されているがゆえに学ぶ存在である』という信条こそ、自由主義の核心をなす道徳的信条であることになるだろう。」同上、p.107
したがって、自らをエリートに擬す藤原氏には大変恐縮なのだが、当然、エリートも過つのだ。それだからこそ、藤原氏の言う(『国家の品格』 p.78)最低限の議会制も機能しなくなり、エリートが指導した1937年以降の大日本帝国も、あえなく1945年の国家敗北を迎えるわけだ。歴史の教訓 に学ばない者に、エリートもへったくれもない。それは単なる愚か者に過ぎない。(続く)
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コメント
足踏堂さん、松本さん どうも。
過剰な劣等感や優越感というものは、人と人の関係を「力」や「地位」といった優劣で判断する傾向からくるのでしょう。
幕末の実践的朱子学者、横井小楠はその学知すべてを中国、日本のものに負っていますが、「人倫」の観点から、西洋の「万国公法」を賞賛し、同じ視点から、西洋の植民地支配や徳川氏の締結した不平等条約を批判することができました。
「人の道」を真剣に教えられ、自ら考えた経験を持つ子供は、哀れな劣等感や優越感から免れる可能性は高い、というのが、幕末期の武士クリスチャンや豪農出身民間活動家を見た私の感想です。
投稿: renqing | 2006年2月26日 (日) 19時09分
岐阜無類堂さん 亀レスです。
> このような信義を人間におくことが妥当であるのか?
このことに対するレスが、書評シリーズ(8)での関曠野の引用です。付言するならこうです。人間が愚かな生き物でもあることは、歴史を紐解けば枚挙にいとまがない。しかし、神のごとき人間もいない以上、この「愚かであること」ないし「愚かさに滑り落ちる危険の潜在」という条件は、《すべての人間》、そして未来永劫に人類が死滅するまで該当します。だから、自らの経験と他者の意見を参照しつつ、‘絶えず’共同で善悪の判断を形成するように努めるしかないのです。
人権批判をやりたがる保守派論客が愚かなのは、自分も愚かな人間の一人であることを自覚していないことです。
‘人間には集団形成の本能が欠如すること’、そして‘いかなる人間をつかまえてきても、しょせん五十歩百歩である’という冷徹な事実認識(to be)から、自然法や自然権という価値認識(ought to be)を導き出さざるを得ない、というのが私の判断です。
引用された、長谷川三千子のホッブズ解釈については、対抗言説としてちょうどよい論者がいますので、近いうちに記事化します。
投稿: renqing | 2006年2月26日 (日) 18時48分
足踏堂さんのご指摘には、まったく頷けるものがあります。現代日本のプチ右翼の源流の一つに、「屈折した海外生活経験者」を挙げてもいいのでは、と思えるくらいです。ダグラス・ラミス氏が指摘していた、「海外生活で<日本の伝統>に目覚めて生け花や武道を始めてしまうステロタイプ」もその軽度の症状と思われますが。
私もヨーロッパ生活の身なので事例には事欠かないのですが、屈折組の対極に「外国崇拝組」もまた多いので良くしたもんだなあ?と思います。たとえば倉部誠「物語 オランダ人」(文春選書)が出版された折に〜この本はオランダ生活の長い筆者が「酸いも甘いも噛み分けた」筆致で書いていて、どう読んでもオランダバッシングの本ではない〜「こんな本が出て、オランダ人の心象を損ねたらどうしよう」と慌てふためいた在オランダの日本人がけっこういた由。
「屈折組」にせよ「崇拝組」にせよ、コンプレックスの根深さという点では共通(つまり一夜にして片方からもう一方へ乗り換える可能性は充分ある)なのですが、よく考えてみると、これこそ日本近代なのですね。
投稿: 松本和志 | 2006年2月26日 (日) 09時23分
ロックの理解については、ほぼ賛同できますが、引用部の敷衍部分にはかなり微妙な問題をはらんでいると思われます。
『自然権論が説く意味での自由とは、人間は善悪を自主的に判断する能力を等しくそなえているという主張に等しい。自然状態における人間は、ホッブズにとってはジャングルの掟に生きる狼であったのに対して、ロックにとっては私的裁判官なのである。』
このような信義を人間におくことが妥当であるのか?かくして問題は振り出しに戻り、保守派論客がよくやる「人権批判」へと一直線に通じていきます。
『ホッブスの提示する自然法とは「自然権の自己規制」であり、「平和と自己防衛のためにそれが必要だとかれが思うかぎり、すすんですべての物事に対する彼の権利を捨てるべきであり、そして他人がかれに対してもつことを、彼が許すような、自由を、他人が持つことで満足すべきである」いわば「いかに安全に秩序正しく自然権を放棄するかの法」である』(以上、長谷川三千子「民主主義とは何なのか」文春新書より引用)という理解もありえるのではないか。
これは藤原氏の皮相なロック理解とは別次元のことではありますが、その背景には根源的な問題もはらんでいると思われます。藤原氏の言説はそのごく薄められたものが出ているにすぎませんが、ロックの思想を称揚するだけでは、有象無象の人権批判を繰り返す勢力への対抗にはならないのではないか、と個人的には最近感じ始めているところです。
投稿: 岐阜無類堂 | 2006年2月16日 (木) 15時52分
よくぞ言ってくれました。
旧いファンだというのが嘘のようです(笑)。
そう、藤原氏には、捻くれたエリート自負がありますね。
もう、「○○は日本だけだ」みたいなことを言いたがる時点で、かなり怪しい。というか、そんなことわざわざ主張しようとするなんて、偉く自尊心でも傷つけられたことでもあるのかなぁと思ってしまいます。
森巣博は『無境界家族』でこう書いてます。
じつは、「われわれ日本人」という強烈な思い込みを持つ人たちが、なんらかの事情によって、「ガイジン」恐怖症に悩んだ海外生活体験者であるのは、「知」の世界ではよく知られている。(p.231)
そして厄介なことに、右の連中は、日本のエリートたちなのだ。・・・彼ら彼女らの体験した「海外不適応」を、自らの個の次元での失態として、捉えるわけにはいかない。エリートは自己否定をしてはならない。そんなことをすれば、彼ら彼女らをエリートたらしめた「制度」そのものの否定に繋がる。(同)
まあ、その反動が日本を特別だと言いたがる気持ちに繋がっている、といったような考察になっています。
もちろん、著作もあるくらい。藤原氏も海外生活体験者ですねぇ。
投稿: 足踏堂 | 2006年2月16日 (木) 01時15分