« 論理と因果(2) | トップページ | 藤原正彦 『国家の品格』 新潮新書 2005年(3) »

2006年2月 9日 (木)

論理と因果(3)

 前回、関数(=写像)とは、

「二つの集合 X,Y があって,X のどの要素 x にも,Y の要素 y がちょうど一つ対応しているとき,この対応を X から Y への関数,または写像」

である、という定義を引用しました。

 一方、因果、ないし、因果関係を私なりに整理するとこうです。

《ある時刻Tnに事象Aがあり、それより、時刻Tn+1、ないし、時刻Tn+m、後に、事象Bがあるとき、事象Aを原因、事象Bを結果と呼び、その関係を因果関係という。それらの事象の時系列的継起関係が一回性のものではなく、常に観測されるなら、より確からしいと言え、それを因果律、因果法則と呼んでもよい。》

 因果で問題にしているのは、何時に何があり、その後の時刻・何時に何があったのか、であり、その関係の頻度です。すわなち、事象A→事象B、を観測したいわけです。

 数学で上記を記述する記号形式である関数は、ある集合から他の集合への対応関係のみを問題にしているわけですから、ある時刻Tn→ある特定の事象A、ある時刻Tn+1→ある特定の事象B、だけに関心があります。そのため、時刻Tnと時刻Tn+1の関係、事象Aと事象Bの関係を記述するルールはありません。もちろん集合の定義は必要です。しかしそれはあるものがその集合の元(=要素)であるかどうかを判定するためのもので、その集合に含まれる要素間の関係を記述しているとはいえません。そのような、ある集合内部で要素間の生成関係を記述するルールを導入する事も可能かもしれませんが、数学で関数を問題とする限り、不要です。

 ですから、例えば、時刻Tn→事象A、時刻Tn+1→事象Bを確認した後に、時刻Tnより以前の、時刻Tn-1→事象A、という関係があったとしても構わない。関数としては、ある集合のすべての要素に対して、他の集合の要素が一つだけ対応していればOKなので。

 数学は人類が生み出した偉大な形式です。史上最も強力かつ安価な道具です。一方、因果関係あるいは、因果律とは、誕生と死という、一方通行の時間を背負わされている人間が、人生の中で生起する物事を理解し、了解する際の、最も普遍的な思考枠組みなのです。

 ですから、便利かつ強力な記述力を有する数学(この場合は関数ないし写像)を、あるモノゴトの理解に援用する場合、それを因果的理解に当てはめることは避けられませんが、数学サイドとしては与り知らないこと、に属します。

(4)

|

« 論理と因果(2) | トップページ | 藤原正彦 『国家の品格』 新潮新書 2005年(3) »

科学哲学/科学史」カテゴリの記事

コメント

ハラナさん、どうも。件(くだん)の本の著者は、かつてその著書で、全共闘と某官立大学の教授との問答を引き、「ただのバカ」より「専門バカ」のほうがはるかにまし、みたいなことを書いていました。そうすると、例の本は、「専門バカ」本というより、専門外のことに大風呂敷を広げた「ただのバカ」本(天才バカボン?)、という確信を抱くに至っているのが現状です。単純に頭が悪いだけなのかも知れません。血税で飯を食っている官立大学教授がそうあって欲しくないのですが。最悪なのは、この本を出した担当編集者。「大バカ」でしょう。編集者の段階で、バッサリ切り捨てるべき、内容の質の悪さです。それは思想信条とは関係ない知的レベルの問題ですから。

投稿: renqing | 2006年2月13日 (月) 02時54分

数学のたちばは、わかりましたが、応用数学のなかの統計学は、相関関係だけではなくて、事実上の因果関係をあつかいますよね。たとえば、あくまで仮説の域をこえないかもしれませんが、病因などを特定しようとする疫学などは、あきらかに「因-果」という、現象Aと現象Bの関係性をとりあつかっているはずです。そこでは、現象Aと現象Bの近接性とか前後関係だけではなくて、「現象Aがなければ現象Bはおきないらしい」といった経験則を特定化していく過程だと。
とはいえ、某数学者が、こういった論理的な思考をにがてとする人物であることは、よくわかりましたし、その理由も、ご指摘の構造の産物なのかもしれません。

投稿: ハラナ・タカマサ | 2006年2月 9日 (木) 23時38分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 論理と因果(3):

« 論理と因果(2) | トップページ | 藤原正彦 『国家の品格』 新潮新書 2005年(3) »