‘痛い’話(3)
大学生の頃だったかと思う(わりと、あいまい (-_-;)。電車で自分は坐るべきかどうか、で結構悩んでいた。いったん坐ってしまうと、バイトで疲れていたので、すぐ眠くなってしまい、眼の前に、老人やハンディキャップを持つ人が居ても気づかなかったり、時機を失うと決まりが悪くて譲れないことが多かったからである。で、まぁ、とにかく、「少なくとも自分よりハンディを持つ人には何かせねばならない」という強迫観念(≒定言命法?)のもと、その実践に乗り出すことにした。
すると、ある昼下がり、駅の階段を中年配の男性盲人が一段一段上ろうとしているではないか。これ幸い(といってよいのかどうか)とばかりに、ちょっと勇気をだして、
「お手伝いしましょうか」
と申し出た。で、
「お願いします」
と、了解を戴いたので、やおらその人の左手をとり一緒に階段を上がり始めた。
しかし、当然といえば当然だが、その人物の階段を上がるペースは、私の日常のペースより遅いに決まっているとか、同じハンディキャップにしても、怪我をしている人の場合と、盲人とでは助け方が違うかもしれないとか、いったことに当時‘も’私は全く想像力を欠いていた。
そのため、私はその盲人をぐんぐん引っ張り挙げるようにして階段を上ってしまったのだ。そのほうが盲人にとっても肉体的に楽だろうとか思って。ところがどっこい、四肢に問題がなくとも、眼の見えない人にとっては、まずもって、前方の視認ができないのだから、一つ一つ手探りというか足探りで進むのが合理的なのだ。だから、同じペースで進んで、障害物や上方からくる人間に衝突しないようにすること、盲人の眼の代わり、つまり情報処理を代替してあげるべきだったのである。
で、上を見ながら勢いよく引っ張り上げ出したのはよいのだが、盲人が少し遅いので、「遅せぇなぁ」と斜め下、後方を振り返ると、その中年男性はかなりあせりながら、必死に足を送っているではないか。「おおぉ、そうだったのかぁ」と、鈍い私もようやく事の深刻さに気づき、ペースをあわせ、手は緩やかに添える程度に軌道修正し、ようやく連絡通路を渡りきり、改札のあるホームまでお連れしたのだった。
離れ際に礼を言って戴いたが、あのとき階段途中で盲人がつまづいていたりしたら、場合によっては怪我に結びついたかも知れないと思うと、夏にも関わらず背中にひんやりしたものが一筋スーっと落ちた。
この後は、なにか手伝うべきだと考えても、見境無く手を出さずに、少し離れたところから見守り、一段落したら離れるという、イギリス人風のアプローチに変更したことは言うまでもない。
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