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2006年3月19日 (日)

communicability(伝わりうること)と vulnerability(傷つきうること)

 人と人は、communicate 可能なのだろうか。

 少なくとも、communicate を断念しない限り、communicate 可能なのだと思う。言い換えれば、 communicate できないと思い、communicate を断念したその瞬間から、その可能性(communicability)は閉じられてしまうことをそれは意味するだろう。そして、 communicability を担保するのは、たぶんvulnerability(傷つきうること)なのだ。

 私たちは、自分でも知らないうちに他人(ひと)を傷つけてしまうことがある。それは人生において避け難い。ということは、 vulnerability (傷つきうること)は、自分が他人から傷つけられる可能性とともに、他者を知らずに傷つけうることをも含んでしまう。「傷つき、傷つけあう」、その可能性 の中に、そうならざるを得ないかもしれないという想像力の中に、そして「傷ついた」とき、他者から慰めをうけたいと自分が感じることの中に、人と人との communicability(伝達可能性、伝わりうること)の芽があると信じられるのではないか。

〔参照〕H.L.A.ハートの「自然法の最小限の内容」

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» ■Communicability(1)■ [日記はこれから書かれるところです。]
以前、「本に溺れたい」のrenqing氏が「communicability(伝わりうること)とvulnerablity(傷つきうること)」という記事を書かれていた。実は、俺も似たような問題意識を持っていたので、これを見たときは正直驚いた。(まあしかし、以前俺がヴァルネラビリティに絡めて...... [続きを読む]

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