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2006年4月 3日 (月)

フランスにおける「権利のための闘争」(2)

 “権利=法=正義”は、王権の恣意的な支配(恣意的徴税、裁判、身体的拘束)への、封建貴族、諸身分の対抗論理としての“特権”という形で培われてきた。その、ある意味で不条理でもあった歴史的遺産を、近代の諸革命において、すべての諸身分が“対等”に享受するものとして、180度価値転倒したものが、「自由」であり「平等=誇りを持つ人間としての対等性」なわけだろう。

 “旧世界”における身分関係を嫌い、逃れて、“新世界”を再創造したはずの合衆国では、身分に基づく位階制ではなく、それにかわる冨に基づく位階制を作り上げた。そのほうが出自の怪しい歴史的“身分”よりフェアだというわけだ。

 グローバル経済化という名の、米国流の経済的新自由主義化は、“歴史”やら、“権利=法”やらの根拠の怪しい代物ではなく、諸国家で構成される世界秩序も、よりすっきりした“冨”という位階制によって、再構成されるべきだというイデオロギーと評価できる。

 それはつまり、「権利(≒世界人権宣言)に対する闘争」⇔「法(≒自然法、国際法)に対する闘争」なのだ。合衆国がイスラエルの国際法違反を擁護し続け、己の“裏庭”中南米に平気で軍事侵略→立派な国際法違反を繰り返してきたのも合点がいく。

 また、その米国に委細構わず従おうとする小泉自民党が、“戦後”が作り上げてきた、権利=法、をなし崩しに葬り去ろうとするのも道理なわけだ。

 今、われわれの眼前で危機にさらされているのは、我々だけでなく「法=権利=正義」そのものなのである。

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コメント

「理屈をいうなぁ」
なんでしょうね。

投稿: renqing | 2006年4月 4日 (火) 02時59分

昨年夏、帰国時に郵政法をめぐる『小泉ディルクール』をTVで見てうなってしまった。みごとな論理の不在です。論理がなんの役に立つのか、と言う批判は成立するけれど、論理のないところで議論は成立できないわけで、原則論としての憲法なりに従う『格好』だけでもいいから見せないとあとはどんどん解体するだけだと思います。国家というものは。

投稿: 猫屋 | 2006年4月 3日 (月) 05時45分

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