« 検索ウィンドウを追加しました | トップページ | 福沢諭吉の光と影(2)* »

2006年5月 6日 (土)

福沢諭吉の光と影(1)

 恥ずかしながら、初めて福沢の(筆と推定される)「脱亜論」を全文通して読んだ。字数にして2200字弱(ぺら11枚)である。日刊紙の社説だから当然といえば当然ではある。

 しかし、この「脱亜論」、有名になったのはなんと1960年前後のことだという*。ということは、1885(明治18)年3月16日『時事新報』にこの社説が掲載されたとき、ショッキングとか、スキャンダルとは、読者も、論敵も受け取らなかったと推測できる。つまり、立論としても有り得べきもので、かつ福沢もしくは福沢一派の『時事新報』の論としても、意外とは受け止められていない可能性が高い。

 素直にその内容を読めば以下のようなことか。

 支那、朝鮮は、西洋文明の優秀さを分かろうともしない、恃むに足らない石頭連中だから、そいつらと事を一緒になそうなどと考えていては却って自らが西洋に侮られ、その軍門に下る危険性がある。それよりは、日本は言ってみればアジアの中の西洋なのだから、西洋と同じ文明の立場から、支那朝鮮に臨むべきだ。

 これを、アジア蔑視+ミニ帝国主義、と読めないならば、相当な福沢シンパか、福沢が批判するような「固陋」(文中より)なんだろう。

 で、一昨年出版され、blogあたりでは今も息長く話題にされている下記の書がある。

福沢諭吉の真実    文春新書
平山 洋
新書: 244 p ; サイズ(cm): 18
文藝春秋 ; ISBN: 4166603949 ; (2004/08)

 正直言って、この書をまだ読んでない。ただその論旨は、アマゾン等の要約を見ると、現行の福沢全集には、福沢の真筆でない『時事新報』の論説が相当数入っていて、福沢の侵略主義的イメージは、ある種の資料操作によって捏造されたものである。その真犯人は、当時、『東京朝日新聞』の池辺三山、『国民新聞』の徳富蘇峰とともに、「三名主筆」と称せられた、『時事新報』の石河幹明、である。その操作をなくして評価すれば、福沢にはアジアへの侮蔑やら植民地主義肯定といった面はなくなる、ということのようだ。

 この書に関して、ネットで見かけた興味深い記事があった。参考までに紹介しておこう。私の立場は、読んでないので評価のしようもない。読むまで保留とさせて戴く。

古井戸さんという方のblog「試稿錯誤」の中の、関連記事10点。それにしても、カテゴリー化してくれればいいのなぁ(あまり他人のことは言えませんが)。

1)福沢諭吉の真実: 平山洋さんからのコメントとわたしの回答
2)福沢諭吉の真実 その2 平山洋さんの回答 と 質疑
3)福沢諭吉の真実、再読。
4)福沢諭吉の真実 その3 平山さんのコメントに対するコメント
5)脱亜論、について
6)福沢諭吉の真実、その4 時事新報社説とはなにか 
7)平山さんへの回答、質問
8)脱亜論    アジアは<アジア的>か by 植村邦彦
9)コメント回答、時事新報社説というもの、および 坂野潤治による脱亜論の読み方
10)諭吉と長沼事件  明治14年政変など

*平凡社世界大百科事典「脱亜論」(植手通有 筆)の項、参照。

(2)へ続く

|

« 検索ウィンドウを追加しました | トップページ | 福沢諭吉の光と影(2)* »

明治」カテゴリの記事

福沢諭吉」カテゴリの記事

コメント

足踏堂さん、どうも

>福沢が「文明」という言葉で表そうとしてのは、西洋に
>おける「法=権利」の体系だったのではないでしょうか。

『福翁自伝』にこうあります。
pp.388(慶應義塾大学出版会著作集版)
「…、けれども真実に於て私は政府に対して少しも怨はない、役人達にも悪い人と思う者は一人もいない、是れが封建門閥の時代に私の流儀にして居たならば、ソレコソ如何なる憂き目に逢て居るか知れない。今日安全に寿命を永くして居るのは明治政府の法律の賜と思て喜んで居ます。」

 一方、1881(明治14)年、自由民権運動弾圧のために動員された巡査は全国で25,400人、この一年間で新聞の発行停止・禁止46件、新聞記者の罰金182件、禁獄15件、併罪11件、演説会の解散・禁止も171件に及んでいます。福澤 or そのグループの手が後ろの回らなかったのは、東京のジャーナリストであるがゆえでしょう。いわば僥倖です。相手によって《法》を変えるというは最も《法》の精神に対立することではないでしょうか?
《脱亜論》については別途記事化するつもりです。

投稿: renqing | 2006年5月 8日 (月) 07時27分

どうも~、福沢シンパの足踏堂です(笑)。
ちょっと好意的に「脱亜論」を読んでみました。

>支那、朝鮮は、西洋文明の優秀さを分かろうともしない、恃
>むに足らない石頭連中だから、そいつらと事を一緒になそう
>などと考えていては却って自らが西洋に侮られ、その軍門に
>下る危険性がある。それよりは、日本は言ってみればアジア
>の中の西洋なのだから、西洋と同じ文明の立場から、支那朝
>鮮に臨むべきだ。

> これを、アジア蔑視+ミニ帝国主義、と読めないならば、
>相当な福沢シンパか、福沢が批判するような「固陋」(文中
>より)なんだろう。

うーん、私が「固陋」なのは認めますが、ちょっと意義ありです。

福沢が「文明」という言葉で表そうとしてのは、西洋における「法=権利」の体系だったのではないでしょうか。彼の前提には、彼が「儒教主義」と呼ぶところの、「法の支配」とは正反対の原理がアジアにはあるという認識があるように思います。

そして、日本がアジアの中の西洋である理由は、「是に於てか我日本の士人は國を重しとし政府を輕しとするの大義に基き」改革(クーデター?)をしたという認識にあるわけで、それをしない中国・朝鮮は、国よりも政府を重んじるままの状態であるから、考え方においては、西洋人の側に立った方がいい、と読めませんかね。


問題なのは、福沢の言うところの「儒教主義」という「アジア的なもの」を、「アジア」と等置してしまう「読み」にあるように思います。これが、アジア蔑視につながっている。

しかし、福沢のこの「脱亜論」においては、「アジア蔑視」よりも「アジア的なるものの蔑視」が出ていませんか?
私は、この立場に賛成します。

「脱亜論」はあくまでも、日本国内の向けて語られたわけで、日本内の「アジア的なるもの=儒教倫理」にその矛先を向けられているように思います。

投稿: 足踏堂 | 2006年5月 7日 (日) 22時59分

古井戸さん、

 ご返事ありがとうございます。下のコメントに関してですが、

>ケネディが 起草者の原稿を逐一チェックしたのと同じく、福沢も石河そのほかの執筆者の原稿をチェックしたのですよ。そのうえでゴーサインを出したのです。「福沢時事新報」社説として。

 福沢が生前に刊行された全集に時事新報社説を収録していない、ということに関してはどう思われますか。また、「時事新報社説=福沢個人の思想」という等式はつねに成り立つのでしょうか(ならば署名原稿にしたのではないだろうか)。とくに晩年のものに関しては、ほとんど福沢自身の手を離れていたという見解を平山氏はとっているようですが。

>ケネディの演説のアル箇所に問題があったとしましょう。ケネディが、それはオレが書いたのではない、草稿起草者が悪いのだ、と言うでしょうか。

 それが言えなくなった段階、つまり福沢以下関係者が物故した段階で石河が自筆の社説を「福沢真筆」ないし「校閲済み」として大正以降の全集に混入したこと、またそれが福沢の思想の一次資料とされてきたことを、平山氏は問題視しているのだと私は理解していますが。

 わたしは福沢を小日本主義のリベラリストだとはぜんぜん思わないし(むしろ「脱亜論」から臭って来るのはは、東から西に方向を変えた事大主義で、それこそが福沢の問題点だと思います)、平山氏の歴史認識(日清戦争は侵略戦争ではない、といった)に必ずしも同意はしないのですが、それはそれぞれの見解として、平山氏の主張には多く頷かれるものがあり、論理の展開という点では古井戸さんの方が苦しいな、と感じたので上のコメントとなった次第です。

投稿: まつもと | 2006年5月 7日 (日) 11時36分

まつもとさんへ。

どのように論破されているのでしょうか?分かりません。

石河幹明、と ケネディ演説の起草者を比較しておられますか?

逆だとおもいますけど。

ケネディが 起草者の原稿を逐一チェックしたのと同じく、福沢も石河そのほかの執筆者の原稿をチェックしたのですよ。そのうえでゴーサインを出したのです。「福沢時事新報」社説として。

ケネディの演説のアル箇所に問題があったとしましょう。ケネディが、それはオレが書いたのではない、草稿起草者が悪いのだ、と言うでしょうか。

福沢ならいうはずがないでしょう。
その跡を継ぐ研究者がソレを言い出した、ということです。

わたしが「ひいきの引き倒し」と、からかっているのは、ここですよ。

投稿: 古井戸 | 2006年5月 7日 (日) 05時46分

>これを、アジア蔑視+ミニ帝国主義、と読めないならば、相当な福沢シンパか、福沢が批判するような「固陋」(文中より)なんだろう。

 そうですかね。しかし、このテキストだけでは植民地主義と言うより、アメリカ追従の福沢らしい「日本型モンロー主義」(けっこう意識していたのではないだろうか)の提唱とも読めると思いますが。あるいは、
「東洋人の心は入り組んでいて迷路のようになっており、それに立ち入って調べようとしても無益なことである。諸君は諸君で、議論のときにはいつも率直で正直でいるのがよい。」(H.ニコルソン「外交」)
 に近い、「権謀術数ではかなわないんだから深入りしない方がいい」という論旨に見えるのですが、それを「蔑視」といいきれるでしょうか。だから暴力で言うことを聞かせよう、とは書いてないわけだし。
 平山氏も、古井戸氏とのやり取りの中で、福沢のいくつかの論説にはアジア蔑視に傾いているものがあることは認めていますね。ただ「脱亜論」単体で、というのはどうでしょうか(上の著書ではその問題や背景に1章を割いて論じている)。

投稿: まつもと | 2006年5月 7日 (日) 04時44分

 わたしは「福沢諭吉の真実」は読んでいて、大いに教えられることの多い本だと思っています。renqingさんが紹介されているブログについて言えば、古井戸さんのほうに「ためにする」議論(ケネディの演説草稿を引き合いに出して平山氏にきっちり論破されているところなど)が多いなと思いました。取り急ぎ感想まで。

投稿: まつもと | 2006年5月 7日 (日) 04時20分

どうも。古井戸さんの「国家の品格」にコメントしておきました。今後とも、よろしく。

投稿: renqing | 2006年5月 6日 (土) 13時43分

おはよう御座います。
TBにチェックが入ったのでやってきました。
(最近、エロサイトからのTB多いもので。。ああまたか、とおもっていたのですが。。)

気づいていただいてありがとう御座います。整理していなくて済みません。3月から本格的にブログ使い始めてまだ要領がよくわからないのです。カテゴリ、というのを旨く使わないとこのブログはホントに使いズラいですねえ。

わたしは、世界や日本の近代とは何か、という視点からなにか書いてみようと思い立ちました(技術翻訳がわたしの本業です)。ちなみに「国家の品格」も書評しています(読まずに書評、というウルトラ書評です)。

読まれたらご意見お聞かせください。

投稿: 古井戸 | 2006年5月 6日 (土) 07時24分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 福沢諭吉の光と影(1):

« 検索ウィンドウを追加しました | トップページ | 福沢諭吉の光と影(2)* »