情緒の欠如
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>日本だと「オレも我慢しているんだから、オマエも我慢しろ」という論理になる。互いに権利を放棄しあうのだ。まさに権力サイドの思う壺だ。
droit=recht=権利=法=正義。
権利を主張することが、すなわち法を実現すること。そして、法を実現している社会、これが正義が実現している、富者にも貧者にも、強者にも弱者に
も、公正な社会です。でも、富者や強者には法は不要かも。そうではない。だって、人生有為転変、いつ今日の強者が明日の弱者になるかわからないからです。
ここに、ご指摘の想像力の重要性があります。何事か夢想することが想像力じゃない。自己の内に潜む、傷つきやすさ vulnerability を自覚し、その体験を通じて、他者の痛みの傍らにそっと寄り添うこと。これが真の想像力です。
藤原某の与太話とは全く逆に、現代日本人に最も欠けているのは、傷ついた他者に涙する「情緒」です。
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再掲終わり
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コメント
古井戸さん、米八さん、足踏堂さん
コメントありがとうございます。
「法」についての考え方に齟齬にあるようです。また、私が「情緒」などと言ったので、さらに話が混乱したかもしれません。ここは二つのたとえ話を挙げてみます。
1)例えば、私と古井戸さんが乗り合わせた飛行機がありエンジントラブルのため、孤島に不時着します。生き残ったのは、私と古井戸さんだけ。着の身着のままなので、飛行機の残骸を探したら、辛うじて大人一人7日分の水、食料が見つかった。これをどう配分するか。すでに、この状況では、民法も、ましてや憲法も存在しません。等しく分けたら、2人は3日しか生きられない。1人で独占すれば、7日は生き延びられる。一週間もあれば、捜索隊に発見される可能性は高まるでしょう。このとき、私が(仮に)古井戸さんより腕力が勝っていて、私が力でこの食料を独り占めすることは許されるでしょうか。
2)国際社会では、一国内の警察や裁判所のような、強制力を伴う実定秩序は存在しません。たとえ、イランが密かに核開発をしていたとして、それに対する国際社会からの批判にも関わらず、その開発をやめようとしない。このとき、武力を持つもの(例えば米国)が、イランは悪い奴である、したがって、核開発を断念させ、懲らしめるために、武力を行使して、イランを攻撃して、今の大統領無理やり変えようとする。これは正しい行いと認められるでしょうか。
私は、仮にこういった実定的秩序が存在しなくとも、人間同士、国家同士、守るべき人の道というものがあると思います。それが「自然法」であり、実定法や憲法をその根底から支えているものであると考えます。詳しくは、新たに記事化を試みますが、一度、以下の文書を読んでみて戴けますか? また、そのご感想など聞かせて戴けると助かります。
自然法について(関 曠野)
http://shiryouko.exblog.jp/1284467/
投稿: renqing | 2006年5月15日 (月) 06時28分
よくわからなくなりましたが。。
現在の話をしているのか、究極の話をしているのか。
最終的には 憲法など無くして、すべて慣習法でいくのが一番であるとわたしもおもいます。
エートスの養成、というのは無理じゃないでしょうか?教育するものでしょうか?
必要悪、として、憲法と、その執行機関があるものとおもいます。日本や米国の現状をみると、憲法無しに現実の諸問題を解決できる英知は共有されていないとおもいます。それに、憲法を適用する社会、は、『憐憫の情』を排除などしていません。むしろ、憐憫の情(アダムスミスの共感、シンパシと同義でしょうか)をインプリメントしていると考えています。憲法をまず 執行した上で、憲法にいぎをいうのはいいが、日本で未だかつて憲法が執行されたことがあるのでしょうか。
PS
ところで、みなさんの論理は、藤原氏の国家と品格の論旨に賛成していらっしゃるのですか(わたしは読んでいませんが)?
投稿: 古井戸 | 2006年5月14日 (日) 17時10分
私は、renqingさんの理解に賛成です。
立憲主義は、その歴史的到達点において、市民的自由=単なる消極的自由を超えた価値を発見していると思っています。
例えば、ロールズは、公正な社会への判断基準として、「格差原理」を唱えましたが、その根拠は「アメリカ憲法の実践文化」であったわけです。現代アメリカで最も影響力を持つ法学者のひとりドゥウォーキンは、アメリカ憲法の核心に「平等な尊敬と顧慮を求める権利」を読み取っています。
つまり、私は(ロールズと同様に)、手続的民主主義だけの考えでは、粗野な功利主義に堕してしまう可能性を危惧します。ノージックでさえ、リバタリアニズムを放棄したのですし。
私は、センが言ったことが真実だと思います。「最小の積極的自由があるから市民的自由の恩恵を享受できるし、市民的自由が守られているから積極的自由が保障される」。
憲法はただの文書です。重要なのはそれをエンパワーすることではありませんか。だとすれば、高みから、それが守られていないというだけではだめなはずです。これが守られる方向を目指さないといけない。それはrenqingさんが書かれているような法文化=エートスを育む方向にあるのではないかと、私は考えています。
だから、社会契約以来の意思説ではなく、自然法を評価しなおす、その根底に、ルソーこそが見出した「憐憫の情」を見出すという作業は大切であるように思います。
投稿: 足踏堂 | 2006年5月14日 (日) 16時08分
名前を書き忘れました。↓は美濃森米八です。
投稿: 美濃森米八 | 2006年5月14日 (日) 13時13分
>国家とは国民ですよ。国民が 定める法律に、おのずからしたがうのであり、政府と国民の間には契約があります。
原則を言えばおっしゃる通りですがね。「施し」とはもちろん一種の比喩に過ぎませんが、その契約の内容も国民の成熟度によって当然違ってくる。
ここでは一部の保守論客のように「民衆を疑え」とか「民主主義を疑え」とか野暮なことは言いますまい。
個人主義を徹底してリバタリアニズムを進めるとすれば当然今の憲法とは原理的にも齟齬をきたします。その面からの憲法改正案を提示しなければならないでしょう。優勝劣敗、私を含めた非力な大多数の人間は存在の尊厳さえ失われる可能性もあります。
それでもなおかつ公的セクター(国家なり政府なり)を必要最低限にして成熟し自律した「人間関係の束」をつくれるのではないか、という思考実験は試みるに値すると考えています。
投稿: | 2006年5月14日 (日) 13時11分
> しかし弱者が国家から少しでも施してもらう分を増やしてもらうなどという思考が少しでもあるなら、そんな権利主張の闘いはもはや意味がない。
それは国家の根拠の誤解だとおもいます。ロック=リバタリアン的にはそうなのかもしれないが、ホッブスー>ルソーからくる社会契約にのっとっています、米憲法などは。つまり、↑の意見であやまっているのは、国家は誰の者か、ということです。国家とは国民ですよ。国民が 定める法律に、おのずからしたがうのであり、政府と国民の間には契約があります。施しではありません。契約に基づく当然の権利を要求しているだけです。これが現在の日本国憲法に書いてあることであり、藤原の頭にはもちろんないことです。 リバタリアン的考えを導入したいのなら、現在の憲法も大幅書き直しが必要です。ソレを国民が認めるなら(わたしは抵抗するだろうが)、従います。もちろん、その場合、大幅減税、になるはずであり、公務員や官僚などほとんどいなくなるでしょう。
筋だけは通していただきたいと思います。
投稿: 古井戸 | 2006年5月14日 (日) 11時51分
これからの時代、闘い方の流儀もいろいろとありえるのでしょう。前にも書いた通り、私は自然法の思想に権力獲得的な思考は本来含まれていないのではないか、と思います。
もちろん権力のなされるがままに無抵抗でいるべきとはこれっぽちも思いません。しかし弱者が国家から少しでも施してもらう分を増やしてもらうなどという思考が少しでもあるなら、そんな権利主張の闘いはもはや意味がない。
いつ強者は弱者に転化するかわかりませんが、弱者もまた弱者であるがゆえの強弁で倫理的強者になって抑圧構造を作り出さないとも限らないからです。
「人間みんなチョボチョボ」ですし、人間の矮小さ、傷つきやすさ(vulnerability)に配慮するのは当然としても、個人主義的リバタリアンとして国家や権力をできるだけ無化していく方向、私的自治の領分に傾きをおく方向にしか前途はない、と個人的には考えています。
投稿: 美濃森米八 | 2006年5月14日 (日) 10時38分
> 藤原某の与太話とは全く逆に、現代日本人に最も欠けているのは、傷ついた他者に涙する「情緒」です。
全体的に意味不明の文章に見えます。
↑の情緒、を肯定しているのでしょうか?まさに、藤原こそがこの 情緒に訴えているのでしょう?情緒=ソクインの情、です。
法、に関する記述もおかしい。弱者強者のもんだいではないとおもいます。 憲法、は 国民の権利、を書いた書き物です。つまり、憲法はすべて、政府が守るべき義務を書いているので国民の義務など一行も書いていません。これがロックの時代からの伝統であり、米憲法で花開いていると思います。当然、日本の現在の憲法起草者はこの流れのなかで立案したとおもいます。
ブログで書いたけれども、藤原が理解し疑う、「民主主義」など、憲法の原則が守られていないから問題が発生するのであり、守られているがゆえに発生するのではありません。たんに藤原は仮想敵を間違えている。
投稿: 古井戸 | 2006年5月14日 (日) 08時43分