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2006年6月 1日 (木)

近代日本の知識人について(1)

 明治以降の近代日本知識人の祖形は、徳川期の儒者ではないでしょうか。こう言うためには、一つの事実を念のため確認しておく必要があります。それは、徳川期を通じて儒者の社会的地位が、高いものではなかったことです。

 徳川期イエ社会は基本的に身分社会であり、その裏面として清朝にも李朝朝鮮にもあった科挙制度がありませんでした。イエにはそれ特有の能力主義に基づく垂直的社会流動性の機能はあり、それを利用して卑賤の身から大身に変貌する例もありました。しかし、それはいわば抜け道、便法であって、身分(生まれ)による貴賎という強固な正当性の観念がいささかも揺らぐものではありませんでした。

 しかし、清朝(李朝朝鮮は少しおきます)では位階制を駆け上がるには、科挙に合格して進士にならねばならず、科挙に合格さえすれば出生、門地は問われない、ということが下々まで含んだ確固たる正当性の観念でした。

 簡単に言えば、徳川期日本における社会的身分上昇はタテマエでなくホンネ、儒教の本場清朝では科挙による身分上昇は、ホンネではなくタテマエ、そ れも強烈なタテマエでした。清朝末期、民国初期の中国知識人たちが、西学(ヨーロッパの学問)の階級概念を学んで思ったことは、「中国には古来より階級は なかった」という実感です。

 清朝や李朝朝鮮における学問上の論争は、政争、権力闘争と一体であり、特に李朝朝鮮では、たびたび血で血を洗う凄惨な結果をもたらしました。

 徳川期における、典型的知識人、儒者は、その身分も報酬、収入も社会全体から見て、かなり低いものだったというのが実態です。ですから、本気で実 践倫理、政治思想である儒教を信じるなら、自らが奉じている思想とその社会的評価、待遇のギャップに身悶えしながら、儒者として、その生を全うしなければ ならなかったことになります。

 しかし、その一方で、武家が遍く支配する徳川の世を、観念的に正当化する、堅牢な概念装置としては、武家側には、儒教という思想的武器しかありま せんでした。ここに、徳川期儒者知識人の「茶坊主」化がはじまります。儒者を必要とする武家は、腹では軽視しながら、その文書作成能力の高さを評価すると いうプラグマティックな態度でお茶を濁す。儒者は儒者で所詮、政治の重大事に自己の学問を生かせないことを承知で徳川の武家の世を言説的に粉飾する。こう いう構造でした。(続く)

〔註〕下記も参照されたし。

近代日本の知識人について(2)

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