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2006年6月 2日 (金)

近代日本の知識人について(2)

 では、現代の知識人たちはどうか。

 現代の審議会政治に大量に大学教授が駆り出される理由は、事務局(という官僚の出先機関)によって決定済みの答申内容を、教授たちの権威でそれをあたかも学的に正しいかのように、お墨付きをつけるためであるというのは、周知の事実です。

 こういう権力によって飼われている大学知識人は、武家社会によって飼い殺され、茶坊主化され、去勢された徳川期儒者の末裔といっても過言ではありますまい。

 それが致命的にまずいのは、この伝統が、「言葉が政治を(つまり現実を)変えうるのだ」という言葉の力への信頼をタテマエ化し、「やっぱ世の中、 力(power,macht)だよな」という、ホンネを跋扈させることです。あまつさえ、言論しか身に持たないはずのジャーナリスト、学者自らがそう思う のですから。

 思えば、日本における、宣長の儒教批判を始めとする思想批判は、たいてい、“タテマエ”(論理)を、“ホンネ”(論者の動機)で《脱構築》する体 のものばかり。「ざまぁ、みたか!」と大見得を切るのはよい。しかし、ホンネだけで作動する社会、なんてありうるのでしょうか。もし、あったとしても、そ れは恐らく骨格のない軟体動物か、鵺(ぬえ)のような代物にしかならないのではないか。大勢の人間が暮らすこの世は、各人に固有のホンネをいちいちすべて 斟酌するわけには行かず、所詮、個々の事情を超えて、普遍的に通用するタテマエを押し出すしかない。“ホンネ”批判は、とどのつまり、社会の骨格(=論 理)を腐食させることになるでしょう。

 ホンネ(動機、底意)によるタテマエ(理屈、論理、体系)の脱構築。これは、言葉を生命とする知識人にとって、非常に魅力的な批判ツールですが、 これだけに狂奔してしまうと、批判対象とは異なる代替的なタテマエの提示ができなくなり、言葉の力を萎えさせてしまうだけです。

 結局、戦後啓蒙といわれた知識人たちでさえも、《言葉》か《力》か、と問われたとき、タテマエでは《言葉》を当然選択するのだが、ホンネでは 《力》の力(ちから)を首肯していたのではないか、というのが私の仮説です。彼らは、無論、体制追随型知識人ではありません。しかし、彼らも、体制型知識 人と同様に、言葉が民を動かし、民が現実を変える、という「言葉の力」への確信を持てないでいたのではなかったか。例えば、研究室内での議論で、未熟な学 部生や若い院生に有効に反論されて屈服したとしても、それはその正しい言説に頭を垂れるのであって、その若造達にそうするのではない、ということと同値で す。逆に言えば、教授の学説に従うとしても、それは学説の真理性に従うのであって、教授の社会的偉さ(=身分)に従うのではない、ということでもありま す。

 知識人とは、人の世が、究極的にはむき出しの《力 power, force》ではなく、《言葉=法》によって統(す)べられていくべきだし、そうなるはずだ、という破天荒で、楽天的な、人間の善性を信頼する、不屈の楽 観主義者のことではないか、と思ったりもするわけです。

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