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2006年7月 3日 (月)

アイザィア バーリン「二つの自由概念」,1958 (2)

 みすず書房版の翻訳本で読み進めているので、標題もそれに合わせて変更しました。必要があるときは、随時 OXFORD PAPERBACKS版を参照することにします。

 前回、いきなり negative(消極的)な結論を提示したので、「なんだ、そりゃぁ?」と怪しまれた方もいたかもしれません。ただ、読み手の私も少しずつ変わってきています。だから、この本、ないしこのエッセイに対する評価が少しずつ変わるのは仕方ないことでもあります。

 ちなみに、奥付にあるメモからすると、私がこのみすず書房版を読了したのが1991年1月21日。ということは私の個人史から言うと、既に15年前となります。私の評価の変化そのものが私自身の変化でもありますから、良き方向とは限りませんが、少なくともそれが私自身の成長の可能性ではあると思います。

 さて、少し中身を見てみましょう。
 

1.「消極的」自由の観念
 この節の最後に、「近代世界において自由主義者たちの考えてきた自由」の要約と、この立場に関しての三つの事実、ということが書いてあります。

自由の擁護とは、干渉を防ぐという「消極的」目標に存する。自分で目的を選択する余地のない生活を甘受しないからといって迫害をもってひとを脅かすこと、そのひとのまえに他のすべての扉を閉ざしてしまってただひとつの扉だけを開けておくこと、それは、その開いている扉のさし示す前途がいかに立派なものであり、またそのようにしつらえたひとびとの動機がいかに親切なものであったにしても、かれが人間である、自分自身で生きるべき生活をもった存在であるという真実に対して罪を犯すことである。

 この立場に関しての三つの事実。

1)ミルにおいては、「消極的」自由観念と、人類進歩の拠点としての「個人の自由」観念に混同がある。

2)上記の立場は、比較的近代のものである。

3)この意味における自由がある種の専制政治、あるいはとにかく自由の欠如態と両立しえないものではない。

 とあります。第三番目の事実は、以下のようにも表現されています。
「個人の自由とデモクラシーによる統治とのあいだにはなにも必然的な連関があるわけではない。」

 そこで、試みに、2×2の4次元あるマトリックスを作ってみました。

 

  正当な権力    正当でない権力
正当な手続きを経て行使される権力 A B
正当な手続きを経ずに行使される権力 C D

 

 さて、ここで正当な権力とは、仮に普通選挙で選ばれた議員で構成される立法府の議員から構成される行政府とし、正当でない権力とは、例えば、自衛隊がクーデタを起こし、永田町と霞ヶ関、および在京のマスコミをすべて武力によって制圧している状態、と考えておきます。正当な手続きを経た権力行使とは、普通選挙で選ばれた立法府において立法された法にのみ基づいて権力行使をすること、と考えます。

 その価値のマシさ加減を比べます。

 A>D 

 これは、一応首肯できるでしょう。そして、

A>B、 A>C

も、よさそうです。問題は、BとCを比べた場合です。

 わたしたち被統治者側からすれば、少なくとも、依法的権力行使をする自衛隊クーデタ政権(そんなものがあるとすれば)のほうが、法に基づかない‘行政指導’を行う霞ヶ関や、戦闘区域に自衛隊を派遣しておいて、「ぜーんぜん、安全」とうそぶいているJM政権よりマシと思われるので、

B>C

と考えられます。

 そのため、「デモクラシーと個人の自由との関連は、その二つを主張する多くのひとたちの考えているよりもはるかにかぼそいものでしかない。」とバーリンは言う訳です。

 しかし、自由にはより根源的な意味があるのではないか。それをすでにバーリン自身が、エッセイ「歴史の必然性」で論じているのではないか、と私は考えます。

〔追記〕2006/07/10
1点だけ、コメントとして。バーリンが指摘する、ミルにおける「自由」観念の混同、という批判には、少々異論あり。ミルが「真理の発見」のためには「個人の自由」が必要だと言った場合、なにも優れた人間や天才のみに関わるものではなかったはずだ。愚かな人間の、その「間違い」、「不善」をなしてしまう自由があるからこそ、他者において反面教師、教訓になり、同じあやまちを避けることが可能となる。また、愚かな人間の行動の中に、その99%があやまちだとしても残り1%に「真理」が存在し得、それが新しい進歩や発展の手掛かりになるのだ、と言っていたはずだ。ミルにおける「積極的自由」的要素の批判や、バーリンの言う諸価値の究極的対立の可能性を強調することにバーリン自身が性急すぎたことが、ミルの「自由」について、妥当な評価をし損なっている気がする。

※参照、弊記事。
「個人の自由とデモクラシーによる統治とのあいだにはなにも必然的な連関があるわけではない」

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