自然法(natural law)から自然法則(natural laws)へ、あるいはブルジョアジーの頽廃について
18世紀以降、急速に自然法の観念が色褪せてしまったのはなぜか。それは、「社会」の理論家達が、17世紀末のニュートンによる力学的宇宙観の大成功に幻惑され、我こそは、「社会」における法則を発見するニュートンたらん、としたことに負う。2人の論者の言を引こう。
ニュートンの万有引力の理論は、因果律によって厳密に決定され完全に予見可能な宇宙の像をもたらした。そして自然科学からはいかなる倫理学や政治 学の教説も引き出しえないのだから、ニュートンの物理学それ自体に知的頽廃につながる要素があったわけではない。それは十八世紀の思想家たちがニュートン の万有引力説から受けた印象から生じた。彼らはそこに人間の干渉を受けつけることなく自動的に作用する「自然」という思想を読みとり、この自然の観念を実 験科学の本質を無視して人間精神や社会に適用しようとした。腐ったブルジョア思想というものがあるとすれば、それはこの「自然」という思想である。というのもこの思想の暗黙の狙いは、人間は自由なるがゆえに道徳的責任を免れえない存在であるという倫理の否認だからである。
関曠野『歴史の学び方について』1997年、窓社、pp.136-7
社会の経験的な考察は近代初頭からすでに現れていたが、これにはなお社会の対象的規定が欠けており、これをもって直ちに社会学と見ることは不可能 な状態にあった。しかし、十八世紀に入るとともに、近代自然法論とは別に、経験的方法に立脚して社会の全体的認識を企図しようとする経験論的社会論の傾向 が俄然有力化して来た。この傾向が招来されたのは、近代以後数世紀にわたって自然科学がますます発達をとげ、特にニュートンが十七世紀の終りに万有引力説 を完成して名声を挙げてから、社会の研究に対して自然科学が模範的な意味をもつものと考えられ、自然科学に偉大な成果を生じた経験的方法が社会の研究者に よって競って採用されることになった結果とみるべきであろう。
ゾムバルトはこの経験的社会論を人間社会の自然論(Naturlehre der menschlichen Gesellschaft)と呼んで、その性格を自然法、特に社会契約論に対する意識的な反対にあるとなし、その代表者こそ近代社会学の建設者と認められるべきであると主張した
新明正道『社会学史概説』1954年、岩波書店(岩波全書193)、pp.39-40
そして、自然法の思想を最も強力にかつ効果的に破壊したのが、David Hume、とりわけ「初めの契約について」(下記参照↓)という小さなエッセイである。
David Hume, OF THE ORIGINAL CONTRACT (1748)
日本語訳については、下記参照。
ロック/ヒューム / ロック、『世界の名著 ; 27』、中央公論社、1977
中の、「原始契約について」
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コメント
当方へのコメントありがとうございました。TBは許可制にしていますので、悪しからずご了解ください。早速公開としました。
私は倫理に自然的基盤があるのは事実だと考えていますが、それをどう価値づけるかは、人間の問題だと思っています。自然的性質であるという事実はそれについての免責を意味するものではありません。このことをはっきりとした形で述べた思想家として関曠野を教えていただき非常に感銘を受けた次第です。
「哲学の歴史11」についていえば、あの巻末には、たしか哲学の自然化が終わるところで分析哲学後の哲学が始まるということが書いてありましたが、哲学者としてそんな待ちの態度でいいのかしらと少々腑に落ちませんでした。
投稿: 烏有亭 | 2007年5月26日 (土) 13時09分
以前から、「法律」も「法則」も英訳すると、lawなので、疑問に思っていました。同様に、「正しい」や「正義」・「権利」の英訳がrightであり、「直角」、つまり幾何学と正義の関係も不思議に思えました。しかし、キケロの法に関する見解とパスカルの述べた「幾何学的精神」を参考にすると、自然法と自然法則と数学的真理と人間の理性との関わりが見えてきました。
言葉(「logos」または「lexis」または「lecture」)の起源を見ても、もともと、言葉、論理、数学、自然法則、法などが分化してきたことが分かります。そして、思考と自然現象との差異が問題となる場合は、これらを分けて扱わなければなりません。辞書、法典、学術書などの登場となったわけです。これで「本に溺れたい」というここのテーマに帰着しました。
知識情報は言葉によって記述されるため、本の中でも辞書がもっとも基本であり、辞書と真理との整合性が不可欠です。
投稿: 長屋修 | 2006年9月25日 (月) 09時43分