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2006年8月18日 (金)

死者を選別する靖国神社(8/18追記)

 靖国神社は「戦争で亡くなった犠牲者」=戦没者を祀(まつ)る神社ではない。

 例えば、昭和20(1945)年3月10日の東京大空襲で亡くなった都下10万人の犠牲者は祀られていない。また、戊辰戦争で徳川幕府側に立って死んだ者たちも祀られていない。さらに、明治新政府の大黒柱でありながら、西南戦争で朝敵とされ死んだ、あの西郷隆盛は祀られていない。

 つまり、靖国神社は、死者の中から誰を神様にするのか一定の価値基準で選んでいるわけである。簡単に言えば、靖国神社側からみて「お国を守るために死んだ人間」だけを神様として祀っているのだ。

 ただ、それにしては、毎日新聞が実施した、小泉首相靖国参拝をめぐる緊急世論調査の結果の中で、こういう回答選択をしている御仁たちもいるにや聞く。

三者択一で聞いた(小泉8/15参拝)評価理由は(1)「戦没者を哀悼するためには首相の参拝は欠かせない」54%

 既にここで、論理のすり替えが行われていることは自明であろう。上述したように、靖国神社は「全ての」戦没者を追悼していないからである。祀っているのは、戦死者のみ、それも、明治constitution(明治憲法体制)を守るために、戦死した面々のみである。

 言い換えれば、靖国神社とは、平和を祈願して、全ての戦争犠牲者をお祀りしている神社ではなく、明治政府を守るために矢玉の中で斃れた人々を顕彰、賛美する神社なのである。

 すべての「戦没者」ではないのに、また「追悼」より「顕彰」(=よくぞ立派に死んだ!、エライ!)する代物を、「戦争」「亡くなった」というキー ワードのみから情緒的に判断、支持する人々。

 その一方で、小泉首相の靖国神社参拝を中韓両国が批判しようものなら、死者を弔うのを、なぜ一々外国から言われなければならないのか、といきり立つ人々。

 日本国首相が靖国神社を参拝することは、大東亜戦争の戦死者を「よくぞ、立派に死んでくれました。あなたたちはあの正しい戦争で亡くなられた、正 しい戦争犠牲者です。いつか、必ず、その正しさを証明します。それまで、しばしお待ちを。」と表明しているのと同じことなのだ。

 あなたには、大東亜戦争が公明正大で、世界に胸を張れる戦争だった、と言えるのかどうか、よーく考えてから、小泉氏やその後継者と言われる、御仁たち、安倍官房長官や、麻生外務大臣の靖国参拝の是非の結論を出してもらいたい。

以下、参照。

靖国神社
やすくにQ&A

「靖国神社に祀られている神さま方(御祭神)は、すべて天皇陛下の大御心のように、永遠の平和を心から願いながら、日本を守るためにその尊い生命を国にささげられたのです。」

*引用者註、「日本を守る」といっても、あなたや私を含む全ての日本人を守るのでは、さらさらない。単に、明治クーデタ政権、および、その系譜を引 く、明治コンスティテューションを守る衝立(ついたて)になったかどうか、である。だから、1945年のポツダム宣伝を受諾するかどうかの瀬戸際に至って も、都市部の無差別爆撃や原爆でいくら日本人が死のうと、「無条件降伏」の受け入れを政府は逡巡したのだ。明治憲法体制を維持できる保証がないからであ る。

「靖国神社の神さまは、日本の独立と平和が永遠に続くように、そしてご先祖さまが残してくれた日本のすばらしい伝統と歴史がいつまでもいつまでも続 くように、と願って、戦いに尊い生命をささげてくださいました。 日本が今、平和で栄えているのは、靖国神社の神さまとなられた、こういう方々のおかげなのです。 この方々が戦争の時、ご自分の生命までささげて守ってくださった「私たちの日本」を、これからも大切にしていってください。 そして、みんなで 靖国神社にお参りし、神さまに感謝の気持ちをささげ、立派な人となることを誓いましょう。」

*引用者註、ちょっと待って戴きたい。「日本が今、平和で栄えているのは」というが、それは話をずらしている。大東亜戦争で亡くなられた人々が残し たのは、廃墟の日本列島ではなかったか。その廃墟の中を、瓦礫を片付け、空腹の子供達を励まして、明日へ向かって生活を一歩一歩再建したのは、大東亜戦争を生き残った人々だろう。とりわけ、意気消沈している男どもに尻を蹴飛ばして未来へ歩き始めさせたのは、女親たちだったろう。こういう話のすり替えに簡単 にだまされてはならない。

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麻生太郎 (Aso, Tarou)」カテゴリの記事

コメント

お久しぶりです。長期夏期休暇から帰った猫屋であります。
日本には(過去20年)だいたい一年に一回帰っているわけで、毎年の変化がオボロゲですがよく見えてきたりします。バブルとアフター・バブル時の日本浮つき加減よりも911以降の“小泉日本”の数年の変化が大きい気がする。もちろん2001年以来の世界全体の変化=保守化・ナショナリズム・対テロを謳った管理強化等とカップリングで起きているのでしょうが、それにしても昨年からの“言語レベル(たとえばボキャブラリーにおいて)”での意味すり替えが激しいと感じますし、同時にこれまでは、タブーとしてだと思いますが、一部の人々にしか使われなかった言葉がTVなどのメディアで日常語的に使われている。たとえば“大東亜戦争”“英霊”などのことばです。思うに、結局は消費機械としての国家、日本は生産機械であった頃の貿易商社主導から広告代理店主導にいつのまにか舵を換えたんじゃないかと考えます。“自民党をぶち壊す”とはこのことだった。言葉をかすりとめて、きれいな映像をつけ、嘘ついてモノを売るのが広告代理店の存在理由でしょう。
他者のいない外交政策は、いつのまにか米国が唯一の他者となったこの国の外交でしかないし、米国がコケタラいったいこの国はどうするつもりなんだろう。死んでもラッパははなさないんだろうか、と不思議になります。そして誰も“美しい国”がどうして“美しくなくなったのか”を語らない。マーケティングの向こうにいるのがいつも同じ人々なのだとは誰も大きい声では語らない。
ああ、意味不明のコメントで申し訳ない。後ほど自己ブログで展開してみます。

投稿: 猫屋 | 2006年8月29日 (火) 15時34分

古井戸さん ご無沙汰してます。
 コメントに同感。付言すれば、終戦直後、GHQによる靖国神社焼き払い計画があったようです。その際、この計画についてある人物に諮問をしました。当時の駐日ローマ教皇庁代表ブルーノ・ビッター神父です。彼が、この計画に反対する答申を返し、おかげで靖国神社は今の姿がある訳ですね。これを歴史の皮肉と言わないわけにはいきません。今にして思えば、この計画が実行されていたら、講和条約発効後、日本人の手によって、再建の論議が巻き起こったでしょうから、あの敗戦を直視する試練になったのに、と思わずにはおれません。

投稿: renqing | 2006年8月19日 (土) 11時37分

西南戦争の件は先日のNHK日曜討論で、所氏とカンサンジュンの間で議論がありました(カンサンジュンが提起したのだが、提起しただけに終わった)。所氏は、西郷は人気ある政治だが時の政府(つまり天皇の側)からみれば反乱軍であり、祀るわけにはいかない。これはそうでしょう。一貫して天皇のための国家神道、という枠を守っています。したがって、GHQが潰すのが一番良い選択であったと思います(民主側にとっては)。 私が問題だと思うのは(だれでも、そうおもうはず)、靖国を民営法人としたのにかかわらず、その名簿などすべて厚生省(戦前の復員省からずっと一貫して)が収集提示していること。靖国など宗教の実体などはなく名簿だけで持っているのだから、民営法人というレッテルだけ実体は政府のしかも反=東京裁判史観一派が支配している、ということです。

だから麻生の提案など、とっくに実現されている。靖国神社を無くする(壊す、土地は没収)かわりに国が財政支援、というのなら話は分かるが、名前も 靖国神社を 靖国社、にするだけ。きっと、神社の建物施設その他はそっくりそのままのこすつもりでしょう。なーーにも変わっていません、現在と。

戦死した兵士約200万のうち100万は餓死です。国民も終戦後、昭和21年になってもまだ餓死がゾクゾク出ていた。現在の北朝鮮よりひどい状況です。昭和21年時点の政府や官僚はすべて(もちろん天皇も)すべて解職解体すべきであったのが、全部残ってしまった(農地制度などを除き)。靖国はこの一環です。
http://blog.so-net.ne.jp/furuido/2006-08-08

投稿: 古井戸 | 2006年8月18日 (金) 21時13分

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受信: 2006年8月20日 (日) 20時58分

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「世界はなぜ戦争になるのか? われわれは戦争という暴力をどのように認識し、いかなる言葉で語るべきなのか? 新たな思想的枠組みを探り20世紀をとらえかえす歴史哲学の探求」というのが、本書カバー袖のことば。 かように根源的に「戦争」を語ろうというのが本書の意図(社会科学ではなく、哲学の存在意義はここにある)。 しかし、全般的に評するには、小生、若干の力不足を感じるので、取りあえず「第2章 軍... [続きを読む]

受信: 2006年8月21日 (月) 19時02分

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