« ネオコン(neoconservatism)の思想的起源(2) | トップページ | イラク、事実上の内戦へ »

2006年8月26日 (土)

国家の‘上格’、‘下格’

「学生たちと話をしていて思うのは、日本は大金持ちで、世界一力の強いアメリカとくっついているので海外の評判、とくにアジアの国々のいうことなど気にする必要はないと彼女たちが考えているということです。アジアの国々との友好的な関係なしに日本の未来はないというと、「え、だって格下の国でしょう?!」という発言がありました。」*

 これは、某大学におけるゼミの一こまである。某教授の推測では、この手の思考が、N国K首相の、国家非理性的行動を支持しているのだという。確かに。

 でも、こういう国民や個人は、一つ不都合なこと直面せざるを得ない。

 たとえば、いま日本が大金持ちだとしても、いつ零落するかわからない。そのときには別の国が(例えば中国や韓国が)、大金持ちだろう。そのときは、中国人や韓国人から「格下」とみなされても当然だし、彼らから非礼なことを言われても、黙っているべきということになる。

 また、世界最強の米国が日本を見限って(例えば日米安保破棄)、東アジアの政治的パートナーとして、全面的に中国を選択したとき、大日本国の国際的な価値は極小化してしまうが、それは仕方ないことになる。

 史上最強の人間がいたとして、その彼(彼女?)も、人間である以上、睡眠をとらざるを得ない。そのとき、寝首をかかれたら、おしまいなのだ。それで護衛つけるのだが、その護衛が、やはり力のみしか信じない者であれば、いつか寝首をかくだろう。これでは安んじて寝ることなど不可能だ。

 人間と人間の関係を、なんらかの「力(ちから)」のみで律せられると考えることは、究極的に、非現実的で無理なことなのである。

 「法」は弱者のみが必要とするか。いや、そうではない。なぜなら、強者も人間である以上、所詮、人間としてのvulnerability(傷つきやすさ)から逃れられないのだから。「法」とは、己の隣人に対する信頼の、別の名なのである。

*千鳥が淵に立つさざ波
のコメント欄、参照。

|

« ネオコン(neoconservatism)の思想的起源(2) | トップページ | イラク、事実上の内戦へ »

「国家の品格」関連」カテゴリの記事

vulnerability(傷つきやすさ/攻撃誘発性)」カテゴリの記事

コメント

TRIPLEさん、コメントありがとうございます。
私は飛鳥時代のことはよく知りませんが、かなり大陸との人的、文化的交流があったはず。それも直視できずに、「日本の伝統」やら、「万世一系」やらの明治以降のフィクションを信じたい向きには誠に困ったものです。

投稿: renqing | 2006年9月 3日 (日) 22時59分

足踏堂さん
>このたびの「冥王星」の騒動は、アメリカの一国覇権主義が明らかになってきたことと関係してるという見方は、ウガリ過ぎですかね?

いえ、意外に、イイ線いってるかも、です。「冥王星」擁護運動は、米国の「国家の品格」的な様相を帯びて来ている気がします。

投稿: renqing | 2006年9月 3日 (日) 20時28分

最近、飛鳥時代の本をちょくちょく読んでいますが・・・。
飛鳥時代では今の中国に怯えていたのですが、それと同じ国とは思えないですね。
というか、あのころの出来事を知っている人ってどれくらいいるのでしょうか?

>ニューエコノミー
19世紀の経済理論と何が違うんだろう?
と思いますけど。
その意味では"オールドエコノミー"といったほうがいいのに。
クルーグマンあたりは"トンデモ"扱いしてますよね。

投稿: TRIPLE | 2006年8月28日 (月) 00時12分

>歴史を見る目とは、とどのつまり、他者のことを思いやる想像力のことだった、というわけです。

全く同感です。

ところで、加齢さんの「強者がいつまでも強者であるはずがない」というのも真理ですね。

このたびの「冥王星」の騒動は、アメリカの一国覇権主義が明らかになってきたことと関係してるという見方は、ウガリ過ぎですかね?

投稿: 足踏堂 | 2006年8月27日 (日) 11時46分

 歴史を見る目とは、とどのつまり、他者のことを思いやる想像力のことだった、というわけです。

 弱者たたき、と歴史感覚の麻痺、とは、一つのメタルの表と裏なのですね。

投稿: renqing | 2006年8月27日 (日) 03時10分

 そうなんですね。強者がいつまでも強者であるはずがない。盛者必衰というかそういう想像力がないんですね。現在が永続すると思っている。あの「ニューエコノミー」なることばにも通じる非歴史的な感覚をみる思いがします。

投稿: 加齢御飯 | 2006年8月26日 (土) 20時25分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 国家の‘上格’、‘下格’:

» ■宗教の政治性■ [日記はこれから書かれるところです。]
あらゆる制度には、歴史的理由があり、それを変革するにあたっては、歴史的解釈が絶対的に必要なのは言うまでもない。それを忘れた行動は、歴史の過ちを繰り返させる動力源になる。■政教分離の不可能性への態度/言説ある愚か者が「政教分離なんて不可能だ」という。アメ...... [続きを読む]

受信: 2006年8月27日 (日) 11時36分

« ネオコン(neoconservatism)の思想的起源(2) | トップページ | イラク、事実上の内戦へ »