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2006年9月 7日 (木)

「知らない」ことは、そのままでは「知りたく」ならない

 「最近の日本人の若者は勉強しない、物事を知らない、と言われるが、実は問題なのは若者(学生)の不勉強ではなく、学生の知的好奇心をかき立てる努力をしない先生(大学制度)の方なのかもしれない。」
知のディズニーランド、ハーバード大学(by 田中 宇)、より

 ものを教える立場の人間の中には、「知らない」こと、「知ろうとしないこと」を、学ぶ立場の人間の側の問題と、見がちなものがいるのは事実だ。本人の「努力不足」ということなのだろう。

 しかし、人間とはヘンなもので、自分の好きなことなら、誰彼が「やれ!」と言わなくとも、いわゆる学校の勉強より熱心に学び、読み、調べ、考えるものだ。

 努力とは、人間とって、とても貴重な、限られた資源(resource)と言える。従って、これを上手に配分(allocation)しないと、すぐ枯渇する。それを避けるには、一定努力が一定の成果に結びつく必要があるだろう。

 己が「世界」へ何かを投げかけたとき、「世界」から何らかの応答があること。つまり、コミュニケーション可能性(communicablity)。これが、常に自己の存在性の不安に苛まれる人間の、恐らくは唯一にして無二の手がかりなのだ。また、そのことによって、努力という貴重資源は、初めて再生産可能なものとなる。

 「知らない」ことを、いかに「知りたく」させるか。ここに教師の本領がある。そしてそのためには、獲得すべき対象としての知識(Knowledge)の価値の高低を提示するより、獲得するその過程としての知ること= Knowing の面白さの手本を見せることが肝要だろう。教師自身がその面白さに導かれて、今そこにたどり着いているのだから。

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