« 中世日本における、selfishとしての「自由」 | トップページ | 政治的な対立は、「なに」を実現するかということにとどまらず、まさしく、「だれ」が実現するかをめぐって生じるものだ »

2006年11月17日 (金)

デカルトにおける「劣情」とはなにか?

 スティーヴン・トゥールミンによる傑作な評言に耳を傾けられたい。

「明らかに、彼の考え方(『情念論』のこと;引用者註)によれば、われわれは自分たちの情緒に対し責任をとる必要はない。感覚とはわれわれが行う何かではない。それはわれわれの身体がわれわれに対して行うものである。精神生活は、デカルトにとって、とりわけ合理的計算、直感的アイディア、知的熟考および感覚上のインプットから成っている。われわれは、自分の計算の妥当性に対する責任を引き受けることはできるが、われわれの推論を妨げたり混乱させたりする感情に対しては責任をとることはできない。デカルトの立場が含意しているのは、この場合、額面通りに受けとると、勃起しようと決断する良い理由がある場合を除いては、哲学者は、自分の勃起に対するすべての責任を否認することができるというものである。」p.64
スティーヴン・トゥールミン『近代とは何か―その隠されたアジェンダ―』法政大学出版局(2001年)、叢書ウニベルシタス 731

|

« 中世日本における、selfishとしての「自由」 | トップページ | 政治的な対立は、「なに」を実現するかということにとどまらず、まさしく、「だれ」が実現するかをめぐって生じるものだ »

Stephen Toulmin」カテゴリの記事

思想史」カテゴリの記事

西洋」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/104369/12707351

この記事へのトラックバック一覧です: デカルトにおける「劣情」とはなにか?:

« 中世日本における、selfishとしての「自由」 | トップページ | 政治的な対立は、「なに」を実現するかということにとどまらず、まさしく、「だれ」が実現するかをめぐって生じるものだ »