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2006年11月19日 (日)

受動態は、主体を消す

 反戦老年委員会さんを久々に訪れた。すると、今や北朝鮮を巡る東アジア外交において完全に聾桟敷(つんぼさじき*)状態の某国の、首相、ABE氏の著書を正面から取り上げ、忌憚のない批判「政治家失格」を浴びせておられた。某国のこの状態そのものは、この真に頭の悪い政治家を、恐れ多くも首相(“Primus inter pares”同輩中の首位の者!!)に据えていることの反映なので、これといった感慨もない。

 で、その P.M.ABEの著書は、性懲りも無くまた《押しつけられた憲法》論を述べたてているらしい。〈らしい〉というのは、私が P.M.ABEの著書を買っても読んでもないからである。理由は、ベストセラーとかいう某書をかつて十回ほど取り上げて、いい加減、アホな本を取り上げる事に懲りたせいだ。

 ここで、反戦老年委員会さんの驥尾に付して言いたいのは何かといえば、この《押しつけられた憲法》の《られた》が気になるからだ。この受動態の文という奴は、普通、取り立てて主語をいう必要のない場合とか、逆に意図的に主語を隠したい場合などに使われる。

 そこで、ちょこっと再考してみたいのだが、現在の「日本国憲法」はいったい、《誰が》《誰に》《押しつけた》ものだろうか? 

 《誰が》は、見やすい。《連合国軍最高司令官=Supreme Commander for the Allied Powers が》である。

 では、《誰に》だろうか? これについては、うってつけの名著の一文があるので引用しよう。

「それではなぜ連合国の機関によって作られた草案が日本政府に「押しつけ」られたのであろうか。忘れてならないのはその時 の日本政府(幣原内閣)なるものは日本国民によって自由に選ばれた政府ではないことである。天皇の政府であり、敗戦責任を負う旧権力の代表機関であった。 この旧支配階級の代表がポツダム宣言の民主化、非軍事化の約束の実現を怠ったがために、彼らが連合国から改正案を「押しつけ」られたのであって、人民が 「押しつけ」られたのではない。それは平和と自由を求める日本の人民にとっては、かえって旧権力からの解放を意味していた。」p.144
色川大吉『自由民権』岩波新書(1981年)

 つまり、M.P.ABE、あんたの祖父が《押しつけられた》ものであるかも知れないが、だからといって、敗戦時の日本列島の住人が《押しつけられた》、のとは異なるだろう、という訳だ。

 敗戦時の「明治コンスティテューション」は確かに日本列島を統治する機構ではあったが、列島住人の総意を受けた法的代表性、つまり、権力の正当性 を有していたかどうかは要検討だ。「明治コンスティテューション」そのものが、いかなる正当性もない陰謀(クーデタ)に起源するものであり、また、その後実質的に権力を振るうことになる元勲と言われた、それを主導した下級公家(岩倉具視)、中下級武士(大久保、木戸、伊藤、山県、etc.)たちに、本当に 権力の正当性があるのかは多いに疑問があるのだ。

 この百数十年前の事実としての権力交代劇の(公)法的正当性は、いかなるものか。それを問わずして、《押しつけられた》も何もない。

*大辞林 第二版(三省堂)によると、以下のような由緒正しき言葉でありました。
つんぼ-さじき 【聾《桟敷》】
(1)江戸時代の歌舞伎小屋で、二階正面桟敷の最後部にある最下級席。舞台から最も遠く、台詞(せりふ)がよく聞こえないところからの称だが、見巧者(みごうしや)が集まった。今の三階席、立見席にあたる。大向こう。百桟敷。
(2)必要な事柄を知らされないでいる、疎外された立場。

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コメント

古井戸さん
>天皇制(第一条)は、押しつけ、でしょうなあ。
昭和天皇の廃位も含めて、国民投票にかけるべきでしたね。

投稿: renqing | 2006年11月20日 (月) 12時43分

ましま さん
>ききしに勝る空疎な本です。
それは、難儀なことでした。でも、私としては、助かりました。
また、貴ブログお邪魔します。

投稿: renqing | 2006年11月20日 (月) 12時41分

天皇制(第一条)は、押しつけ、でしょうなあ。


天皇制など
http://blog.so-net.ne.jp/furuido/2006-05-04
横田喜三郎の天皇制
http://blog.so-net.ne.jp/furuido/2006-03-13

投稿: 古井戸 | 2006年11月19日 (日) 11時12分

ご無沙汰しております。
 このたびTBいただき、また拙記事を取り上げていただいたこと光栄に存じます。私もP.M.ABEの本を見る気がしなかったんですが、職に対する「畏れ」のなさを検証する意味で(いやいや)とりあげました。ききしに勝る空疎な本です。
 色川大吉氏は、キレのいい論調で若い頃からのフアンです。私の実感した戦後を補強していただいたような気持ちがして、気分をよくしています。
 有難うございました。
 

投稿: ましま゜ | 2006年11月19日 (日) 10時48分

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