かつて神様は日本語を廃せ、と告げられた〔1〕
明方の風物の変化は非常に早かつた。少時して、彼が振返つて見た時には山頂の彼方から湧上るやうに橙色の曙光が昇って来た。それが見るゝ濃くなり、やがて又褪せはじめると、四辺は急に明るくなつて来た。萱は平地のものに較べ、短く、その所々に大きな山独活が立つてゐた。彼方にも此方にも、花をつけた山独活が一本づつ、遠くの方まで、所々にその他、女郎花(をみなへし)、吾亦紅(われもこう)、萱草(かんぞう)、松虫草、なども萱に戻つて咲いてゐた。小鳥が啼きながら、投げた石のように弧を描いてその上を飛んで、又萱の中に潜込んだ。
中の海の彼方から海へ突出した連山の頂が色づくと、美保の関の白い燈台も陽を受け、はつきりと浮び出した。間もなく、中の海の大根島にも陽が当り、それが赤えひを伏せたやうに平たく、大きく見えた。村々の電燈は消え、その代りに白い烟が所々に見え始めた。然し麓の村は未だ山の陰で、遠い所より却つて暗く、沈んでゐた。謙作は不図、今見てゐる景色に、自分のゐる此の大山がはつきりと影を映してゐる事に気がついた。影の輪郭が中の海から陸へ上つて来ると、米子の町が急に明るく見えだしたので初めて気付いたが、それは停止することなく、恰度地引網のやうに手繰られて来た。地を嘗めて過ぎる雲の影にも似てゐた。中国一の高山で、輪郭に張切つた強い線を持つ此山の影を、その儘、平地に眺められるのを稀有の事とし、それから謙作は或る感動を受けた。
志賀直哉『暗夜行路』(1921-1937)より
さすが、神様の文章はしびれる。しかしながら、その志賀も↓のような事を言うこともある。
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コメント
いえー、どう致しまして。
投稿: renqing | 2007年3月14日 (水) 04時01分
おはようございます。わたしはどうも志賀直哉とは相性が悪いようで、あまり読んでいないのですが(たぶん新潮文庫の『小僧の神様・城崎にて』しか読んでいないような気がする(笑))、引いていただいた文章はたしかにわたしの方で引用したアメリカの作家の自然描写から連想を誘いますね。ありがとうございました。
投稿: かわうそ亭 | 2007年3月13日 (火) 10時07分