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2007年3月 8日 (木)

責任観念の多義性(2)

「ニュルンベルグ裁判でナチの指導者が外国勢力に責任をとらされるのは、かれらがドイツ国民に責任を負うこととは別のことなのである。」
アルフレッド・シュッツ『現象学的社会学の応用』御茶の水書房(1980)
、p.281

 さしずめ、我々日本国民が言えるのは、
「極東軍事裁判で帝国陸海軍の指導者が外国勢力に責任をとらされるのは、かれらが帝国臣民に責任を負うこととは別のことなのである。」

 1945年からすでに62年。日本国民は、当時の統治責任者たちの敗戦責任を、まともに問うてきたのだろうか。それが今でも尾を引いている気がしてならない。

※以下、ご参照を乞う。
《自己責任》をめぐって
責任観念の多義性(1)

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