自己正当化の二つの道
人が、己を肯定しながら生きていくことは当たり前のことだ。己を否定し始めたら、辛くて何のためにこの世に生まれたのか訳が分からなくなってくる。
たとえ、この宇宙の誰も認めてくれなくても、自分だけは、「うん、大丈夫だ。なんという事はない。間違えたら、失敗したら、直せばいいじゃないか。行こう。」と己に声をかけていくべきだ。新しい自分になる勇気。これさえあれば、立ち直れる。
自己正当化には、多分、二つの道がある。
1)自己が変貌したことを己と他者に認め、その「変ったこと」を言葉で(内なる言葉でも、他者への表明でも)正当化する道。
2)自己が変貌したことを、意図的にでも無自覚にでも認めず、「変っていないこと」を正当化する道。
時に、若気の至り、と言い逃れするジジイがいるが、これは1)にはならない。なぜなら、これは「己の思想を変えた」、「己の指針とする原理をある理由に基づいて変えた」、というステートメントではなく、「変った」事実を、人間一般(人間とは年齢とともに変るものだ)にすり替え、「己が己を変えた」ことをなんら含意しないからである。つまり、自分は変っていない、というステートメントと同じことなのだ。
「転向」が「変節」となるのは、1)の場合ではなく、2)の時だろう。自戒をこめて。
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コメント
おお、F市武蔵野台の住民 様
私の言いたいことは、記事「挫折と再生」中の関曠野の文に尽きています。
西部邁は、彼がまだ駒場で助教授だったころ、私が学部学生で某学会に潜り込んだとき、あるセッションのコメンテーターでした。それが終了した後、いくつか話を聞いたついでに寿司をおごってもらった記憶があります。(-_-;
彼はそのとき、「僕は(社会科学上での?)地図を描きたいんだ。」と言っていた様な気がします。
投稿: renqing | 2007年4月13日 (金) 04時56分
西部邁あたりも、学生運動のことを言われると「ガキの頃のことを言うな」的反論をしてますね。
さて私自身について言うと、若いときはニューサイエンスに夢中になっていましたが、何か憑物が落ちたように関心が無くなりました。
これはオウム事件の影響か?
F市武蔵野台の住民より
投稿: T_NAKA | 2007年4月12日 (木) 12時54分