「言葉の力」を思い出させるエッセイ
「ところで、週末になるとホテルの酒場の様子は一変した。平日の夜は、スウェーデン人技師とぼくとが殆ど毎晩同じような話を繰り返しているだけで、あとはひっそり静まり返っている酒場は、土曜の夜には泥酔者たちで大荒れとなった。それは、回教の戒律がもっと厳格な南の方で、油田の開発に従事している欧州や米国からの人々が、強い酒に酔うために、大挙して北上してくるからであった。
その中の何人かの人びととは次第に顔馴染になってゆくのであるが、彼らの中には、明らかに大戦中どこかの遠い荒い海に、長い間出ていたような匂を持ち続けている人たちがいた。
あの、あお黒く光る鋼鉄の機械油のにおいを、ぼくらは相互のどこかに探り当てながらも、しかしながら、そこから先には踏み入らなかった。お互いに、浅くしか眠ることが出来なかった夜々のことを、おたがいの不運な時代のことを、ぼくらはまだ打ち明けることが出来なかった。」
佐野英二郎『バスラーの白い空から』青土社(2004年)、p.65-6
この小さな宝石のようなエッセイ集は、たとえどこから読み始めても、美しい言葉と出会えることの喜びを私たちに思い起こさせてくれる。上の文には、戦争 やいくさ、などという言葉はひとことも顔を見せていないが、それであるからいっそう、軍艦に己の命運を託さざるを得なかった若者たちの、それも敵味方で あったかもしれないかつての若者たちの、永久に塞がることのない傷口の存在を、私たちに静かに告げる。「言葉の力」をもう一度信じてもよい、と思わせるも のがここにはある。
| 固定リンク
« 嫁の持参金は夫のものか?〔1〕(古代ローマの場合)/ Does the wife's dowry belong to her husband? [1] (in the case of ancient Rome) | トップページ | 論理的に考えること(和辻哲郎) »
「文学(literature)」カテゴリの記事
- 運命と和解する/中村真一郎(2022.12.08)
- 力の指輪/ Rings of Power(2022.09.05)
- 文学と vulnerability(攻撃誘発性)/ Literature and Vulnerability(2022.08.01)
- 「日本語の特徴」加藤周一 2021年/ Features of Japanese Language (Kato Shuichi)(2022.07.09)
- 心は必ず事に触れて来たる/ The mind is always in motion, inspired by things(2022.07.05)
「日本」カテゴリの記事
- Proof of Origin for "Modernity"(2022.12.25)
- 「Modernity」の原産地証明(2022.12.25)
- いじめ、紅衛兵、内務班(2022.09.30)
- 現代日本における「貧困」ー国際比較/ Poverty in Contemporary Japan: An International Comparison(2022.09.26)
- 「日本語の特徴」加藤周一 2021年/ Features of Japanese Language (Kato Shuichi)(2022.07.09)
「昭和」カテゴリの記事
- 2022年はインフレ元年:コストインフレの半世紀へ/ 2022: The First Year of Inflation: Toward a Half Century of Cost Inflation(2021.12.31)
- 懺悔と免責/ Repentance and Immunity(2021.12.30)
- 佐野英二郎『バスラーの白い空から』1992年〔3〕(2021.12.23)
- 徳川文明の消尽の後に(改訂版)/After the exhaustion of Tokugawa civilization (revised)(2020.05.05)
- 鹿児島駅8時38分発 わが心の集団就職列車(2020.02.25)
「書評・紹介(book review)」カテゴリの記事
- What are legal modes of thinking?〔PS 20230228: Ref〕(2023.02.26)
- 法的思考様式とはなにか/ What are legal modes of thinking? 〔20230228参照追記〕(2023.02.26)
- 明治29年のライブニッツ/ Leibniz in Meiji 29 (1896)(2023.02.25)
- 弊ブログ主のインタビュー記事、第2弾(2023年2月)(2023.02.08)
- 価格を決定するものは、「需要」ではなく、「費用」である(2)/ What determines price is not "demand" but "cost" (2)(2022.12.17)
「戦争」カテゴリの記事
- いじめ、紅衛兵、内務班(2022.09.30)
- For what purpose does our country go to war?, by Akiko Yosano, 1918(2022.05.19)
- "Exoteric or Esoteric Buddhism" on the Principle of Self-Help(2022.05.02)
- 「自力救済の原理 the principle of self-help」を巡る顕教と密教(2022.05.02)
- ジャック・ボー氏のインタビュー - The Postil Magazine(日本語訳)/ Our Interview with Jacques Baud – The Postil Magazine(Japanese)(2022.05.02)
コメント