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2007年5月 5日 (土)

井上勝生 『幕末・維新』シリーズ日本近現代史(1) 岩波新書(2006年)

 本書の内容は多岐にわたる。したがって、本書執筆における著者の意図とその成果にのみ注目して論じることにする。

■維新史は書き改められたか

 本書「はじめに」pp.iv-v において著者はこう記している。

「「極東」の東端という、地勢上、有利な位置にある日本においては、発展した伝統社会のもとで、開国が受け入れられ、ゆっくりと定着し、そうして日本の自立が守られた、というのが本書の一貫した立場である。」p.iv

「日本の開国は、比較的早く定着した。そうであれば、幕末・維新期の対外的危機の大きさを強調するこれまでの評価を大はばに見なおす必要がある。
 切迫した対外危機を前提にしてしまうと、専制的な近代国家の急造すら「必至の国家的課題」だったということになる。」p.v

「・・・、日本民衆が伝統社会に依拠して、新政府に対して激しい戦いを展開した事実を中心として、江華島事件の新史料などの近年の成果を紹介しつつ、維新史をあらたに描きなおしたいと思う。」p.v

 この列島の国制史において、19世紀中葉、徳川将軍を最高権力者とする武家政権から、天皇を最高権力者とし薩長土肥の武力を中心とする維新政権に、権力が移行したのは歴史的事実である。だから問題は、その過程をどのように捉え、説明し、叙述するか、ということになる。

 著者の主意を換言して要約すると以下の2点にまとめられるだろう。

① 日本列島における「近代化」(=欧米起源のものを範とした、一国一元的な権力機構の導入、経済社会のビジネス化)は、開国を期にゆっくりと定着し、達成された。
 それが可能であったのは、開国以前の列島に存在した徳川政権および社会が、「近代化」とは異なるが、ある種の合理化された人間社会だったからである。
 だから、維新の軍事独裁クーデタ政権によってのみ初めて、日本列島における「近代化」は成し遂げられることが可能だったわけではない。

② 19世紀中葉、この列島の国際的環境を欧米列強相互の外交・軍事関係から改めて見直すと、「対外的危機」にあったとは言えない。
 だから、維新政府のような、軍事独裁政権によってのみ、辛うじて日本列島の国家的独立が守られた(欧米列強の植民地化を免れた)という言説は、妥当性がない。

 著者が書き直したいと考えた史観は、したがって、上記2点の反対物である。

①´日本社会は開国以前、欧米列強から決定的に遅れていた。しかし、維新政権の開明的な「上から近代化」で遅れを取り戻し、明治・大正の半世紀をかけて、欧米列強と肩を並べる、強国になった。

②´開国前後、日本は欧米列強の侵略によって植民地化の危機にさらされていた。しかし、開国期に権力を握っていた徳川政権は、欧米列強の軍事的侵略 から日本を守る気概も能力もなかった。にもかかわらず、徳川政権は自らの権力維持のみに腐心する封建的なダメ政権だったので、徳川政権を批判する尊皇攘夷 の世論が沸き立った。そして日本全国の憂国の士を代表して、薩長が中心となり徳川政権を武力で倒し、維新政権を樹立した。
 だから、維新政権が軍事独裁的だったのは、日本の民族的独立を守るためには、権力と武力の集中が必要だったためなので、歴史の趨勢上、止むを得ざるものだった。

 さて、私は著者の①、②を完全に支持するものである。だからその線に沿って、現代日本人が多く持っている誤まった維新史観が改められるべきと思っている。

 ならば、著者の意図はこの書で実現できているか。残念ながら、私にはそれが首尾よく成功を収めたとは思えなかった。

■なぜ、維新史は刷新できなかったか

 第一に、いろんな事を盛り込みすぎ。したがって、史書としての story が見えにくい。この点は、このシリーズ日本近現代史②『民権と憲法』の書評でも類似の指摘をした。

 内容的には、幕末・維新期の、政治史、外交史、社会史、経済史、と目まぐるしい。この時期についての最新の研究成果を盛り込もうという意図は善だ し、実際、興味深い知識を得られて助かるのだが、如何せん大目的は維新史観の刷新である。この困難な課題を新書という器で達成しようとするなら、十分に 練った執筆戦略に基づく「選択と集中」が必要だ。

 第二に、標的をはっきりすべきだった。直裁に言えば、従来の維新史観とは司馬史観のことであろう。国民的作家、故司馬遼太郎が、「坂の上の雲」、 「花神」、等の小説でイメージとして造形し、「この国のかたち」、「明治という国家」等の歴史エッセイで、「知の巨人」として演出して見せた、「明治の日本は頑張っていて健気で愛すべきでさえあるが、昭和の日本のみは唾棄すべき、どうしようもない例外的に異常な時代だった。」という明治+維新観である。

 この強力な言説に異議申し立てをし、学問的根拠を持って、全く異なる視角から、幕末・明治を書き直そうというのである。生半可なことでは歯が立つまい。未知の事実を大量に見せられたからと言って、それで歴史の見方が変るわけではない。私など、内容量が多すぎて、読了した後、疲労感が残ってし まった。

 司馬史観は、「史観」として、のっぴきならないほど強力なのである。つまり、イデオロギーなのだ。強力なイデオロギーは、新しい事実発見などでは崩れないに決まっている。必要なのはイデオロギー批判であろう。

 第三に、だとすると、著者が実行すべき、イデオロギー批判の言説戦略は二つある。著者は幕末・維新期の政治史の研究者である。ならば、

①外交史、政治史的に、権力の正当性が、徳川政権、薩長クーデタ集団のどちらにあったのか、事件の経過ごとに追いかけること。それは同時にその時点での、権力の正当性の担保を何に求めるかを明示することでもある。

②司馬史観が出てくる経過、つまり、維新軍事独裁政権を正当化するような言説が、いつごろから誰によって唱えられてきたのかを、史学史的に追いかけること。特に、開国期に植民地化の危機があったという、「外圧危機説」をいったい誰が唱えだしたのか、を追求すること。

の二つが差し当たりが考えられよう。

 著者の専門性からいえば、この新書を①で特化したほうが、より衝撃があっただろうと思う。

 ②については、特に「外圧による植民地化危機説」には、私にも心当たりがある。マルクス主義史学である。服部之総、羽仁五郎、井上 清、芝原拓自、等という面々だ。服部はマルクス主義史学からの明治維新論として先鞭を切ってはいるが、少々毛色が異なる。羽仁以下の大家たちは、「人民史観」と呼ばれた一群の人々である。

 彼らは開国期、幕末・維新期を、「外圧による植民地化危機」と論じる。したがって、徳川政権を封建的の一言で切り捨て、その一方で必然的に、明治維新、つまり事実上、維新政権=軍事独裁政権を善となすのである。

 上記の言を訝しむ方は、試しに、下記の二著をご自分の眼で確かめて戴きたい。

 Ⅰ 羽仁五郎『明治維新史研究』岩波文庫 (1978年) 中の、
   「東洋に於ける資本主義の形成」

 Ⅱ 『井上清史論集1 明治維新』岩波現代文庫(2003年) 中の、
   「幕末における半植民地化の危機との闘争」

 なぜ、マルクス主義史学が明治維新が大好きかは、後日論じてみることにする。ただ、この記事を読まれている方には、その代わりとして、以下の引用をお見せしておこう。

「しかし、基本的な考え方として、明治維新は、封建制下に封建搾取の廃止と近代的自由をもとめる農民の闘争を原動力とするという見解は、どこまでも 正しいのであり、さらに発展させられて具体化されなければならないと私は考える。なぜなら、封建社会の基本的矛盾は、領主と農奴的農民の絶対に融和するこ とのできない激烈な対立であり、その矛盾の発展が歴史をつくってゆくから。」
井上清『日本現代史』第一巻、東京大学出版会(1951年)、p.9、上記Ⅱの元本

 発展段階、歴史法則、矛盾、これが彼らのマジックワードである限り、マルクス主義者は明治維新の神話に加担し続ける羽目に陥るわけだ。

 ひところ前までは、明治維新とフランス革命の比較などというおよそ的はずれな研究が流行った。比較すべきなのは、むしろ、ボルシェビキ革命ではなかったか。そのクーデタの正当性のなさ、そして歴史の捏造、という点で、余りにも類似しているからだ。

■参照
幕末に列島の植民地化危機はない
「維新神話」とマルクス主義史学(1)
「維新神話」とマルクス主義史学(2)
「維新神話」とマルクス主義史学(3.1、若干増訂)
「維新神話」とマルクス主義史学(4/結語)


井上勝生 『幕末・維新』シリーズ日本近現代史① 岩波新書(2006)
目次
はじめに―喜望峰から江戸湾へ
第1章 江戸湾の外交
 1 黒船来航
 2 開国への道
 3 二つの開国論
第2章 尊攘・討幕の時代
 1 浮上する孝明天皇
 2 薩長の改革運動
 3 尊王攘夷と京都
第3章 開港と日本社会
 1 開港と幕末の民衆
 2 国際社会の中へ
 3 攘夷と開国
第4章 近代国家の誕生
 1 王政復古と「有司」専制
 2 戊辰戦争
 3 幕末維新期の民衆
 4 近代国家の創出
 5 版籍奉還と廃藩置県
第5章 「脱アジア」への道
 1 急進的な改革
 2 東北アジアの中で
 3 東アジア侵略の第一段階
 4 地租改正と西南戦争
おわりに
あとがき
参考文献
略年表
索引

*〔註〕 明治維新の国際環境の研究史については、下記が非常に有益。
鵜飼政志「明治維新の国際環境研究ノート」2002年3月
同氏業績リスト中、論文16を参照。PDFファイルとしてダウンロード可能。

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コメント

すみません。もう掲載されていましたね。見落としていました。

投稿: かつ | 2007年5月23日 (水) 17時19分

どうもありがとうございます。
理論ということになれば、当然「発展史観」ということになるのでしょうが、そうなると、これは当時の歴史学者に限らず、当時の日本の「マルクス主義」(正確にはスターリン理論)全体の問題になりますね。
ただ、野呂や服部の維新研究はそれまでの手放しの維新礼賛に対する批判として始まったはずで、司馬史観(ほとんど読んでませんが)と一緒にするのは酷だと思ったもので。
羽仁から芝原までつながる、インドや中国を引き合いに出して無媒介に「植民地化の危機」を論じるというのは確かに無理だと思います。
しかし、一定の歴史的必然性を主張することは、必ずしもそのことを善として主張することとは違うのではないかと思います。
新しく記事を書かれるということですが、お時間のあるときで構いませんので。

投稿: かつ | 2007年5月23日 (水) 16時29分

かつ さん、コメントありがとうございます。

 ご指摘の通り、羽仁五郎の上掲論文で、羽仁が明確に明治クーデタ政権を支持したり、賛美したりしているわけではありません。しかし、その点は、どの人民史観派の人々でも似たり寄ったりです。問題は、彼らの歴史理論にあります。

 ということで、ながくなりそうなので、別途記事を書きます。ご参照ください。

投稿: renqing | 2007年5月23日 (水) 13時07分

はじめまして。批評されている井上勝生さんという方の著書については知らないのですが(このへんの知識がほぼ30年前と、古いもので)、講座派=歴研系の理論の評価について感じたことをちょっと書かせてもらいます。
講座派系といっても人によって若干の違いはあると思います。井上清の場合はどちらかというとナショナルな視点が強く、言われているような批判もあたるかもしれませんが、羽仁は必ずしも維新=善とは捉えていないのではないでしょうか。むしろ、幕末の民衆運動の力に乗っかってその成果を簒奪し成立したのが維新政府だといった捉え方ではないのかと思います。いずれにしても、旧講座派は維新=ブルジョア革命説を否定しているのだから(中には封建制の再編成というような極端な人もいます。経済史系と政治史系でも違いはあるでしょうが)、その全体を維新=善と捉えた人たちとはいえないのではないかと思います。

投稿: かつ | 2007年5月22日 (火) 11時08分

まつもとさん、紹介コメントありがとうございます。

ふむ、確かに内容が濃そそうですね。いろいろ読むものが溜まっているのですが、あまり遅くならないうちに、トライしてみます。

投稿: renqing | 2007年5月21日 (月) 02時45分

こんにちは。同じ著者の前著を読了しましたが、

開国と幕末変革(講談社 日本の歴史18)
http://www.amazon.co.jp/%E9%96%8B%E5%9B%BD%E3%81%A8%E5%B9%95%E6%9C%AB%E5%A4%89%E9%9D%A9-%E4%BA%95%E4%B8%8A-%E5%8B%9D%E7%94%9F/dp/4062689189/ref=sr_1_4/503-4336621-6729509?ie=UTF8&s=books&qid=1179678998&sr=8-4

こちらの方が本の完成度は高いですね。おそらく、この内容から面白いディテイルをかなり削って新書1冊に縮める、という無理をした結果が、renqingさんも指摘されている「盛り込みすぎ」につながっていると思います。

ただ、岩波新書を読まれたあとでもこちらの単行本はお薦めできます。幕末の百姓一揆の詳述がたいへん素晴らしく、「植民地化の危機説」を支えた(捏造した?)文書として、戦前に文部省維新史料編纂会が編纂した「維新史」を紹介していることは参考になりました。ほかに幕末維新期のアイヌ民族や被差別民も取り上げられており、たいへん豊富な内容です。

投稿: まつもと | 2007年5月21日 (月) 01時53分

かわうそ亭さん、コメントありがとうございます。

 過去は今を生きる我々とべつものではありません。1945年の大日本帝国の敗戦。この意味をなんら考えない輩が現在、内閣総理大臣のポストに坐っています。
 大日本帝国の挫折は、単に交戦国であった、中華民国、米国、英国、他の連合国に、栄光ある大日本帝国陸海軍が軍事的に敗北したことのみを意味しません。「国体」=明治憲法体制(Meiji Constitution)という国制が、挫折したのです。そして、明治憲法体制は、「明治維新」によって出現した権力機構を、そのまま近代主権国家の枠組みに転写したものに他なりません。
 1945年の国家的挫折が、なんら明治コンスティチューションを変更しなかったことは、現在の政権与党幹部に、1945年以前のパワーエリートの孫やひ孫がぞろぞろいることを見れば明らかです。
 明治維新神話を突き崩す必要があるのは、日本人自らの手で、我々を今も支配する、これら明治の亡霊たちの息の根を止め、近代日本における「開国」の意味を再考し、民族としての「近代」をやり直すためなのだと私は思っています。

投稿: renqing | 2007年5月 7日 (月) 02時08分

わたしも、おかげさまですっきり頭の整理ができました。
井上勝生氏の論点はたしかに傾聴に値すると思いますし、従来の幕末維新史の見直しの議論は多いにするべきだと思います。
ただし、「かくありえたかも知れない歴史」というのは所詮は空しいもので、なーに明治の元勲なんぞの成り上がりどもがいなくったってニッポンはどっこいちゃんとやってみせましたわいな、いや、むしろあんな連中に無法な権力奪取なんぞ許さなんだら、もっとましな国になってましたがな、と言っても、「はあ、そうですか」とわたしなぞは言って、「貴重なご意見ありがとうございました。では次いきましょうか」でおしまいという感じかなあ。(笑)

投稿: かわうそ亭 | 2007年5月 6日 (日) 22時13分

烏有亭さん、コメントありがとうございます。当方の雑文がお役に立ち嬉しいです。(^^v 当方も貴blogにて少しずつ勉強させていただくつもりです。

投稿: renqing | 2007年5月 5日 (土) 22時15分

ブログ拝見して、同書を読んだ後のなんかすっきりしない感じがとれました。大変勉強になりました。ありがとうございます。

投稿: 烏有亭 | 2007年5月 5日 (土) 20時39分

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