小島毅 『靖国史観 - 幕末維新という深淵 -』ちくま新書(2007年)
読了することはスンナリいったが、どう書いたものか、随分呻吟してしまった。評することが意外に難しい本だ。今も迷いながら書いている。
著者には、二つのプロテストがある。一つは、「明治維新」は名分の立たない、不当な権力奪取である、ということ。二つ目は、その不義の歴史的事件を、一世紀以上もの間、正当であるとする歴史叙述がまかり通って来たこと。この二つである。
その二つの問題を一身に体現している存在が、靖国神社ということになる。そこで著者は、靖国神社誕生の歴史的経緯、特にその思想史的経緯を、三つのキーワード、「国体」、「英霊」、「維新」、の概念史(Begriffsgeschichte)的考察を通じて、腑分けし、明らかにしていく。
1)第一章 国体
古典中国語としての「国体」の字義を確認後、後期水戸学者、就中(なかんずく)、会沢安(正志斎)の『新論』を取り上げ
る。そしてこの書に結実する「国体」概念には、寛政の改革から『大日本史』編纂事業を介して二つの要素が流れ込んでいることを指摘する。「朱子学一尊」、その系論としての「大義名分論」、の二つである。後者は、天皇を君主として見なす以上、[天皇⇔将軍]関係を「大政委任論」として解釈する方向へ誘導する結果となった。特に、著者は老中松平定信がこれをやらかしてしまったことが大きいとする。ただし、それにはそれなりの歴史的文脈があり、天明の大飢饉がもたらした将軍(「公儀」)の権威失墜を天皇(「禁裏」)を利用して回復しようとする面もあった模様だ*。
さらに、記紀神話、祭政一致国家、戦闘者としての武士、と考察を重ね、「国体」についてはこう述べている。
国体とは、単に天皇を君主として仰ぐ体制ではない。そうではなく、「天祖の神勅」を奉じる天皇を君主として仰ぐ体制なのである。「三種の神器」の象徴性・重要性はここにある。正しい戦争は、そうした「神の命を受けたもうた」天皇の軍隊が、まつろわぬ敵どもをなぎ倒していくことをいう。本書、p.64
2)第二章 英霊
ここでは、靖国神社誕生の具体的な歴史的経緯が、文久2年の勤皇志士たちによる招魂祭から辿られていく。そして、早々と以下の二つの文でその正体を示す。
靖国に祭られる英霊とは、天皇の名のもとに戦った(ことになっている)陣没者や天皇のために政治的に犠牲になった人たちのことである。「天皇のため」であって、「日本国のため」ではない。p.96
「官軍」と「賊軍」の区別。これが靖国の原点である。p.99
次に、この語の典拠となった藤田東湖の「追和文天祥正気歌」を、朱子学の理気論から「英霊」を解読し、以下の結論に達する。
・・・。靖国の英霊とは、天皇のために戦死した人たちの「気」なのだ。
古今東西、君主や種族のために戦死した者を顕彰・慰撫する祭祀や施設は数多い。一般論としては靖国もその範疇に属す。なにも特殊な存在ではない。
だが、哲学的・社会人類学的にではなく、歴史的に考察した場合、靖国神社とは、以上述べきたった水戸学的死生観・倫理感によって誕生した施設だということが許されよう。p.134
1点注意したいのは、pp.110-111に、加藤祐三氏が『黒船前後の世界』(ちくま学芸文庫1994年)で試みている、19世紀アジアでの欧米列強との不平等条約の類型化を引いていることだ。これは元来、幕府の外交交渉力をプラスに評価するために加藤氏が導入したものだが、長州藩の攘夷戦争の後始末である下関賠償金などを無視しているなど、明白な事実誤認の存在が下記註**で指摘されているので、読まれる方はご留意ねがいたい。
3)第三章 維新
「維新」の概念を、王朝交代を意味する「革命」と比較し、『大日本史』編纂のコンテキストを読み解きながら、挫折した後醍醐天皇の建武の中興からの遺志を継ぎ、幕府を廃して再び天皇親政の国制へと復活させることを指示するもの(p.174)とする。
そして、武家政権が歴史上、中世の慈円『愚管抄』、北畠親房『神皇正統記』によって正当に位置付けられてきたことを論じる(p.182)。ただ、これを持ってくるのだったら、他の論者のものでも当然よいので、江戸期の武家政権観を論ずるほうが適切だったと思う。エクスキューズ(p.175)はあるが、あまり説得的ではない。
最後に、ナショナリズムの勃興、として、本居宣長の思想、および、その水戸学への影響を論じてこう述べている。
水戸学は「日本」の歴史を天皇中心に描くことによって、ナショナルな意識の中心として、現行憲法の表現を借用して言うならば、天皇を「日本および日本国民統合の象徴として」活用したのである。皇国史観とは、そうして作られたナショナルヒストリーにほかならない。p.192
ここでの興味を引くのは、朱子学、陽明学などの新儒家思想が日本においてポピュラーになるのはむしろ明治時代になってからだ(p.154-156)、というもの。一世一元制度などは朱子学的王権の特質であり、明治の官吏登用試験制度はむしろ科挙官僚制に相当する、との指摘には、唸った。当blogの「御一新」その隠されたモダニティ(2)、と響きあうものがありそうだ。
また、p.186に、本居宣長における、「漢意」(からごころ)vs.「大和心」(やまとごころ)が、普遍vs.特殊という枠組みではなく、特殊vs.特殊という、「普遍」を「特殊」に引きずりおろす方法、という知的操作であることが指摘されている。これは、丸山真男のいうイデオロギー暴露***であり、普遍を媒介としないが故に、我々日本人の持つ他者性へのある種の鈍感さをも示しているだろう。
4)結語
さて、著者のプロテストは成功しているだろうか。
二つ目の、これまでの明治維新の歴史叙述(つまり靖国史観)へのイデオロギー批判としてはかなり功を奏していると評せよう。問題は一つ目のプロテストである。実はこのことについて本書ではたった一箇所でしか触れていない。
私は中国や韓国が批判するからではなく、一人の日本国民として個人的感情・怨念からこの施設への「参拝」はできない。(・・・。)ある人たちが「東京裁判」を認めないのと同様に、慶喜追討を決めた小御所会議の正統性を認めないからである。p.197
これは、著者の価値判断の告白にすぎず、他者への説得可能性を有する意見とはいえない。なぜ、池田屋事件で近藤勇に義があると言えるのか、王政復古がなぜ不義のクーデタなのか、少なくともこの書では有効な議論がされているとはいえないのだ。
だからこそ人間存在の歴史性の意識は、「罪を反省せぬ者に未来はない」と断言した古代イスラエルの予言者とともに始まるのである。そして歴史性の意識と罪の論理がこのように結びついている以上、歴史学は科学ではなくて全人類へ向けた一種の法廷弁論なの だ。歴史を書くということは一つの判決文を書くことであり、歴史家に公正な態度と事実の尊重が要求されるのもそのためである。
関曠野『歴史の学び方について』窓社(1997年)、p.25
著者の「維新神話」へのプロテストの可否は、その書きかけの判決文を完結させた後に明らかになろう。
小島毅 『靖国史観- 幕末維新という深淵 -』ちくま新書(2007年)
目次
はじめに
第1章 国体
1 国体の本義
2 寛政の改革
3 天祖の創出
4 祭政一致国家という言説
5 戦闘者としての武士の再興
6 天壌無窮の信仰
7 国体明徴運動
8 平泉澄の歴史認識
第2章 英霊
1 靖国の祭神
2 誰が英霊なのか
3 幕末の英霊たち
4「英霊」の原義
5 藤田東湖
第3章 維新
1 維新の本義
2 革命との相違
3 万世一系の創出
4「中興」のあと
5 武家政権についての歴史認識
6 ナショナリズムの勃興
おわりに
あとがき
参考文献一覧
〔註〕
*藤田覚『幕末の天皇』講談社選書メチエ(1994年)
**[註]明治維新の国際環境の研究史については、下記が非常に有益。鵜飼政志「明治維新の国際環境研究ノート」2002年3月同氏業績リスト中、論文16を参照。PDFファイルとしてダウンロード可能。
***丸山真男『日本の思想』岩波新書(1961年)、pp.17-20
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コメント
くれど さん、コメントありがとうございます。
>田中清玄も・・・
とあります。ただ、くれどさんのblog記事も拝読しましたが、この人物の事をもちだされても、私はあまり関心がないので恐縮ですがなんとも言えません。ま、たいていの右翼は、自分では決して額に汗水たらして稼がず、富者や権力者に取り入ってそのおこぼれで喰っている連中ですから、さもありなん、です。その点、安岡正篤も大同小異です。
靖国神社については、それを支持しながら、「ご祭神」に関して提案している方がいるので、↓を参照されるとよろしいかと思います。
靖國神社と戊辰戦争(ご祭神について)
http://www1.odn.ne.jp/~aal99510/yasukuni_boshin.htm
私の靖国神社についての意見は、「誰が祭られている」かだけではなく、「誰が何の目的で祭っているのか」を検討する必要があるというものです。詳細は、すでに過去記事を書いていますので、もしお時間と関心があれば↓をご参照願います。
私の近親者に、米軍の火炎放射器で焼き殺されたものが何人かいます。外地や内地での、そういう無数の非戦闘員死者の哀れな魂を鎮めるつもりのない靖国神社は、己の価値基準で戦争による死者を選別しているわけで、少なくとも、すべての日本人戦争被害者を追悼しているとはいえません。靖国神社の祭祀の意図は、「大日本帝国」のために死んだ者たちを顕彰することにあり、「大日本帝国」のせいで死んだ犠牲者たちを鎮魂することにない。私が頭を垂れ、涙を流すのは、かつての敵味方を含む戦闘員死者の方々、戦争で死ぬつもりはなかった内外の非戦闘員死者の方々、そういった方々の死を悼み、冥福を祈るためです。私は、近現代に関する史書を読むたび胸締め付けられ、今の自分はなにをすれば、死者たちに報いることになるのか、考えさせられます。
この自分の気持を、「大日本帝国は、何ら不正なことはしていない」と主張する一方で、その大日本帝国を不正だとした米国と、「凛とした日本外交の推進・日米同盟」(衆院選自民党マニフェスト)を推進するような、ご都合主義的野合を平気でして、恬として恥じない、支離滅裂な、小泉・安倍的な連中に、利用されたくはありません。
死者を選別する靖国神社
http://renqing.cocolog-nifty.com/bookjunkie/2006/08/post_09c3.html
靖国神社「遊就館」についての麻生外務大臣の発言
http://renqing.cocolog-nifty.com/bookjunkie/2005/11/post_885f.html
投稿: renqing | 2007年8月17日 (金) 12時54分
だから 何?という気がしますが
靖国にいる方って 維新の戦争で死んだ方ですか?お参りするのは その遺族ですか?
田中清玄もこの本と似たようなことをいってますが 彼が どんな男だったか まとめてみましたが それを知らないで そういう趣旨をネットで書いている人多いのには少し あきれてしまいます
まず靖国がある、知り合いがいる、そこにいく人と そのひとたちの集団がいる。
そこに眼をむけない思想史の本って何?
単なるオタクの戯言
反靖国の理屈って 中共に云われたからしかないので あとからこしらえた理屈にすぎないと思いますが。
投稿: くれど | 2007年8月17日 (金) 09時16分
かつさん、renqingさん迅速なコメントありがとう御座います。
渡辺先生の本は大変面白いですよね。特に最初の御威光に関する論文は事実をこれまでもかと見せ付けられあまりの迫力に圧倒されます。
中国の呼称について、玉勝間にシナでは西洋での呼び名の真似になるので唐がよいとあったように記憶しています。今手持ちに持っていないので確かめられませんが…。
南郭、真淵、宣長などなら泰平を以って自国の優位性を主張するのも多少は理解できますが、この論文の末尾にも触れていましたが外圧の恐怖をあれほど主張した水戸学にまで継承されるのはなんともいえませんね。時代の変遷に伴い元の意味が変質してしまったのでしょうか。今日の日本でも好景気で謳歌している時より、不景気で心が揺らいでいる時のほうが中国蔑視の発言が力を持っているように感じるので、むしろ水戸学に近い動機なのかもしれません。外国を知りうる知識人であるのなら現状肯定が他国蔑視にもつながるでしょうが、普通の人の感覚はどうだったのでしょうか。また、昭和初期の段階で田舎の普通の人は朝鮮や敵国だった中国をどのように見ていたのでしょうか。私には現状肯定が他者蔑視に容易につながるとは思えないのです。
かつさん御指摘ありがとう御座います。blogも拝見させていただきました。大変興味深くとても参考になります。以前、高場乱が亀井暘洲に学び亀門の四天王と称されたと小耳に挟んだことがありましたので亀井派の影響大と思いましたが水戸学の影響も無視できないでしょうね。黒田藩が勤皇派に厳しくあたったのは南冥廃黜問題の余波が残っていたのでしょうか?時代は大きくずれていますが…。私も学生時代、長らく福岡に住んでいたのですが、離れてからのほうが関心が大きくなったように感じます。
投稿: 賈雨村 | 2007年5月25日 (金) 23時07分
私、福岡の人間なのですが、頭山満など玄洋社の創立メンバーに影響を与えたのは、「人参畑のばあさん」と呼ばれた高場乱という女傑です。
この人はいわゆる筑前勤皇党の流れをくむ人ですから、筑前の藩学である亀井学派というよりも、やはり薩長と同様に水戸学の影響が強いのではないかと思います。
筑前勤皇党から初期玄洋社までの流れについては、杉山茂丸の息子である夢野久作が『近世快人伝』で描いています。
明治になって儒教が一般国民に浸透したというのは、薩長士族が権力を握り、身分制度を廃止した四民平等による中央集権的な「国民国家」形成によって、儒教的イデオロギーが強力に上から注入されたということなのでしょう。
それに対し、一般に身分制的な前近代国家では、支配階級は被支配階級に対して、彼らが従順に税を納め反抗しさえしなければ、それほど関心を持たないものですね。
もともと日本人の大部分は農民出身であるにもかかわらず、サムライなどというものが日本人の典型であり、武士道が日本人の国民精神であるかのような神話が対外的体内的に形成されたのも明治の話ですね。
投稿: かつ | 2007年5月25日 (金) 14時37分
賈雨村さん、どうも。
お考えに、おあつらえ向きの論文があります。
渡辺浩 「「泰平」と「皇国」」
同著 『東アジアの王権と思想』東京大学出版会1997年、所収
第6章、p148
私も時間をみて、リトライしてみます。
投稿: renqing | 2007年5月25日 (金) 03時39分
何時も何時も深い洞察で大変参考になります。
この本を読みましたが、明治以降になって儒学の一般国民への浸透がなされたように私も感じます。靖国、教育勅語なども強く儒教的です。亀井南冥の影響を受けたと思われる頭山満などはむしろ在野にいたわけですから、政府の中枢の発想は恐らく朱子学ではなかったかと思われます。官吏登用システムも朱子学的です。平田派国学や徂徠学は在野に流れて今日での党人派的保守の源流になったのではないかと勝手に推測しています。
私は日本での中国、朝鮮蔑視の起源はこの日本の中国化(儒教化)にあるのではないかと思っています。福沢的な理由でそのような考えに至れ得る人はやはり少数ではなかったでしょうか。日本の中国化が十分に達成されたため元の中国、朝鮮が必要なく感じたという解釈は成り立たないでしょうか。ご意見が伺えたらと思っております。
今後も面白いblogを期待しております。
投稿: 賈雨村 | 2007年5月24日 (木) 14時25分
T_NAKAさん、コメントありがとうございます。
「水戸学派の思想により引導を渡される」
まさに、思想、言説が歴史を動かす、という見本です。
また、「制限されている存在」である人間の、「意図とその歴史的帰結の弁証法」と評すべきものですね。
「地獄への道は、善意のレンガによって敷き詰められている。」
投稿: renqing | 2007年5月 6日 (日) 22時24分
>慶喜追討を決めた小御所会議の正統性を認めないからである。
個人的には、小島氏に同感です。
しかし、徳川政権の正当性を根拠を求めるために「大日本史」が編纂されたのでしょうが、その水戸学派の思想により引導を渡されるとは歴史とは皮肉なものですね。
投稿: T_NAKA | 2007年5月 6日 (日) 18時46分
烏有亭さん、コメントありがとうござます。
そういえば、この本、理屈じゃない、エモーションだ、といいつつ、その情念面でのことはあまり、明示的に触れてなかったような。そのエモーションと三種の神器の関係も今ひとつ、renqingにも腑に落ちていませんでした。
投稿: renqing | 2007年5月 6日 (日) 16時32分
トラックバックありがとうございます。最近幕末・明治関連の歴史書を読みますが、その理解にたいへん役立ちます。歴史書というのは、解釈者の欲望を嗅ぎ分けつつ読まねばならないのが一つ難しいところです。
投稿: 烏有亭 | 2007年5月 6日 (日) 14時39分