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2007年5月25日 (金)

「哲学の自然化」?

飯田 隆(編)『哲学の歴史 11 20世紀 2』中央公論新社(2007年)

 上記の本が面白いらしい。「哲学の自然化」で、哲学が脳科学に吸収合併されてしまう勢いなのだそうだ。

 別にそれは全く構わない。痴人の戯言にしか聞こえない哲学論議もある。今、カントの「優れた」解説書(というより入門書か?)を読み終わろうとしているが、どこがいいのかサッパリ分からない。筆者は書きながら改めて感動しているようで、こちらはシラケル一方。

 自然科学という考察法の優れた点は、その仮説性が他の学問領域よりよく見える点だ。だから、「哲学」が自然科学的アプローチにより、その仮説性がより明確になるなら、慶賀すべきことだろう。

 問題は、その学問成果を当の哲学者や外野の連中が、「これで人間の心が分かったぁ、これが真理だぁ。」と納得してしまう危険だ。

 これほど非科学的なことはない。科学の成果とは常に仮のものであると認識することがポイントだ。天動説と地動説で、後者が科学的で真理だと誤解する向きは多いだろうが、この両者はある操作で補正すると、それぞれの座標空間上に1対1で対応する。1対1で対応するということは、数学的に等価だということだ。前者は説明としてやたらと複雑で、後者はシンプル、それだけの違いなのだ。便利だという言う意味で、後者はより優れているに過ぎない。最後に著名な数学・科学者の言を引こう。

 幾何学の対象は特殊なある「群」の研究である。しかし群の一般概念は我々の理知の内に先住している、少なくともその可能性を内に蔵している。この概念は、我々の感性の形相としてではなく、我々の悟性の形相として我々に服従を強いるのである。
 あらゆる可能な「群」のうちで、自然現象を測る標準となる、いわばメートル原器になるようなものを選択しなければならないというだけである。
 経験はこの選択するのを強いはしないで、導くのである。経験はどの幾何学が最も真であるかということを認識させはしないが、どれが最も便利であるかを認めさせる。
ポアンカレ『科学と仮説』岩波文庫(1985年) 、pp.98-99

 もし個人の経験が幾何学を創造することができないとしても、祖先からの経験ではそれができるということをよくいう。しかしそれはどういう意味であろうか。我々はユークリッドの要請を経験的に証明することはできないが、我々の祖先はそれをすることができたという意味なのであろうか。とんでもない。むしろ自然淘汰によって我々の理知は外界の条件に適応してきたし、またその理知が人類によって最も有利な幾何学、いいかえれば最も便利な幾何学を採用したのだという意味である。それは我々の結論、すなわちユークリッド幾何学は真だというのではなく、有利だというのと全く一致する。
同上、p.116

Jules-Henri Poincare, La Science et l'hypothese (1902年)

〔註〕下記もご参照を乞う。
自然法(natural law)から自然法則(natural laws)へ、あるいはブルジョアジーの頽廃について

〔参照〕
「哲学の自然化」?(2)
物理法則に物理量は存在するか?(1)
物理法則に物理量は存在するか?(2.3)
物理法則に物理量は存在するか(3.1)
物理法則に物理量は存在するか(4/結語)

 

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