マッコウクジラは、なぜ集団で子育てをするか(ver.1.1、下線部)
下記の本に、概略以下のようなことが書いてあった。
大隅 清治クジラは昔 陸を歩いていた―史上最大の動物の神秘 (PHP文庫)(1997年)
マッコウクジラの母親は、群れをなして育児をする。その理由とは、
1)個体で子を育てるよりは、集団でいたほうが外敵(シャチなど)から、子を守りやすい。
2)マッコウクジラは、深海に生息するダイオウイカなどを食べる。しかし、子クジラにはまだその潜水能力がない。子を守るために深海に潜らなければ、母クジラが飢え死にする。かといって、子を放置して深海へ潜っているうちに、外敵に子クジラがやられてしまう。ということで、母子クジラのみが集団で生活するようになった。
さて、2)は、フムフムなるほど、と言う感じ。進化戦略上、合理的だなぁ、と理解できる。で、1)だが、確かに実感的には、全く同感なのだが、はたして本当にそうなのか、というところが腑に落ちない。例えばこうである。
1)母クジラ 1 / 子クジラ 2
これだと、1:2の比率だ。
2)母クジラ 5 / 子クジラ 10
これも比率でいえば、1:2だ。にも関わらず、なぜ、1)より2)が安心なのか。これには、なにか合理的な見方があるはずだ。なにしろ気持ち的には 頷けるんだもん。おそらく、初歩的な進化生態学の本などには書いてあると思うので、renqing の以下の推論を、数理的に洗練してある文献などご存知 の方が、この文書を読まれていたら、コメント欄にご紹介いただければ、嬉しいです。(^^v
さて、三つ目の数字例から考えてみる。
3)母クジラ 10 / 子クジラ 20
この3)も、母クジラ:子クジラ=1:2、である。ところで、子育てする母クジラ一頭あたりの子クジラの数は、こうなる。
20/10=2 (子クジラ/母クジラ)
無論、1:2 なのだから、当然である。
そこで、少し見方を変えてみる。人間の母親でも同じだが、一頭の母クジラがある瞬間モニターできるのは子クジラ一頭だけであろう(クジラは両側面に 目があるので、2頭を同時に見れるかも知れないが、情報を処理する脳は一箇所だろうから、少なくとも母一頭が子一頭を見るほうが負担が軽いのは間違いなか ろう)。
そして、その子一頭をモニターしている母一頭にすれば、他の母クジラを当てにする場合の比率はこうなろう。
19/9=2.1111・・・
2)でこの比率を出してみると、
9/4=2.25
明らかに、母クジラ一頭当たりの子クジラモニター負担は増えている。
1)ではどうか。母クジラは1頭のみ。ということは、残り1頭の子クジラを見てくれる母クジラは0頭、となる。
1/0=?
数学では、分母に0を入れることは禁則になっているので、数学的にはなりたたない。ただこれを、無限小とみなせば、分母が無限に小さくなっているのだから、母クジラ1頭当たりの子クジラの数は無限大に大きくなっていると、考えることができる。
つまり、逆に考えれば、
1)母クジラ 1 / 子クジラ 2
から、母クジラ2頭、子クジラ4頭への集団化は、(母クジラが1頭しかいない場合に比べれば)母クジラが子クジラを見失う心配度は無限大に小さいということになり、クジラの核家族?から複合家族?への社会進化は決定的な大進化と評価できる。そして母子数の比率が同じでも、母子個体数が増えれば増えるほど、心配度は着々と小さくなってくる訳である。
さて、この解釈は、筋が通っているかどうか。ご意見のある向きは、寄せていただけると非常に嬉しい。
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コメント
了解です。(^^v
投稿: renqing | 2007年6月16日 (土) 05時14分
>通俗的、例えば、NHKの「ダーウィンが来た」的、進化論理解が横行しているので、いずれ、進化論が、目的論や因果論、はたまた、数学的古典論理とは異なる、かなり特異、かつ重要な説明論理の一つであることは、別途論じてみたいと思っています。
そうですね。私が直感的に持った違和感は、以上のようにrenqingさんが仰るところと一致します。進化論が目的論的に語られるのは大きな誤りを流布することになりかねないと感じていました。<進化論>の再検証=救い(掬い?)出しは、必要ですね。
今回の(不用意な)書き込みは、renqingさんの以下発言のような社会への問題意識を感じたからこそのものであることはは付け加えておきます。
>人間の母親で、乳幼児を、昼間、一人で育てていると(父親は昼間、会社で家にいないので)、育児ノイローゼになりやすいのも、この母一人だけによる育児の持つリスクからすれば、当然の気がする。
例えば教育学者の大田尭は、子ども(への教育)が「親の私物化」した現状に対して批判していたように記憶しています。
その問題意識に共感していた私は、renqingさんの問題提起が、現状の社会批判をされているように読めました。
そうであれば、マッコウクジラを通して、現状のわれわれの問題への処方を探す活動になりえますね。
問題意識に共感したからこその、ラディカルな問題設定の練り上げへの参画だと受け取っていただけるとありがたく存じます。
投稿: 足踏堂 | 2007年6月15日 (金) 19時18分
ついでに。
人間の母親で、乳幼児を、昼間、一人で育てていると(父親は昼間、会社で家にいないので)、育児ノイローゼになりやすいのも、この母一人だけによる育児の持つリスクからすれば、当然の気がする。
投稿: renqing | 2007年6月15日 (金) 04時44分
足踏堂さん、どーも。
こちらこそ、ご無沙汰です。さて、論題に。
1)母子の集団化の有利さは、マッコウクジラに限らない。
このご指摘、全くごもっとも。確かにそうです。そういえば、ゾウもメスによる集団生活をしていて、移動中は、子ゾウは母ゾウたちに囲まれるようにしています。
メスによる集団化が有利になるのは、「親と子の間に大きな力の差があること」も、このゾウの例、を考えても、頷けそうです。
2)「核家族が基本」ということを無反省に前提してしまっている。
これは、少々、言葉のあやでして、比喩的に使ってしまいました。「核家族 nuclear family」などというのは、20世紀半ば、文化人類学上で提唱された概念なので、動物に使ってはまずいのでした。すみません。これは、なしということで。(^^;
そもそも、動物集団の考察に、「家族」なる語、概念を使用していいものかどうかも、怪しいですから。人類学の分野でも、「核家族」概念の普遍性はかなり揺らいでいるようなので、その点からもまずかったと思います。
進化論のロジックでいえば、例えば、単一の母子のみで育児するマッコウクジラと、母子集団で育児するマッコウクジラの2種類のカテゴリーがマッコウクジラ内にあって、自然界において、後者の生存確率が高ければ、世代を経るごとに、後者のカテゴリーが優勢となり、ついには、ドミナントになる、というストーリーが描けます。
時間的な前後関係(通時的)ではなく、並立的関係(共時的)の、スクリーニングのロジックが、進化論のエッセンスですので、この点でもまずい説明でした。
通俗的、例えば、NHKの「ダーウィンが来た」的、進化論理解が横行しているので、いずれ、進化論が、目的論や因果論、はたまた、数学的古典論理とは異なる、かなり特異、かつ重要な説明論理の一つであることは、別途論じてみたいと思っています。
また、ご指摘ありがとうございました。こういう、言論の自由にもとづく、知識成長の論理(ミル的?half-truthの相互補完的蓄積)も、実は、時間発展する系を説明する、異なるタイプの論理、と言えます。
ま、renqingが、一書でもものす機会があれば、そこにまとめて論じることもあるでしょう。(^^;
投稿: renqing | 2007年6月15日 (金) 02時48分
ご無沙汰しております。
さて、浅学の足踏堂では、renqingさんの問いかけに答えることは不可能そうなので、ただ感想的に意見を記すことをお許しください。
まず思ったのは、大隅(=renqing?)説1)が正しいとすると、多くの他種もまた集団で子育てした方が良いということになるように思えるのですが、どうでしょうか? これはマッコウクジラだけのことではないという結論が演繹的に導かれる気がします。そして、実際そういう種は多いような気もしますので、そうであればかなり信憑性が高い説ということになりそうです。
ただそこには「親と子の間に大きな力の差があること」という条件が加わるかもしれません。つまり、親は他の動物の攻撃を撃退できるだけ強いが、子は弱い、という特性があることも条件の一つでしょうか。
もう一つ。renqingさんの議論は、「核家族が基本」ということを無反省に前提してしまっているようにも思えるのですが、いかがでしょうか? もし実は多くの種が集団子育てを当然としていたら、「核家族⇒複合家族」は「進化」として「方向付け」て良いのかどうか。
実はそもそも、「核家族」の方が異常なのではないか、という問いたては成り立たないでしょうか。
投稿: 足踏堂 | 2007年6月14日 (木) 19時15分