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2007年7月 1日 (日)

物理法則に物理量は存在するか(4/結語)/ Are there physical quantities in physical laws? (4/Conclusion)

 F.Nakajima氏に、wikipedia の「科学的実在論」をご紹介戴いた。それに助けを得ながら、当座の結語としたい。

 戸田山和久氏の整理による二つのテーゼで考えてみる。

1)"独立性テーゼ"
「わたしたち人間の認識活動とは独立して、世界の存在や秩序があるはずだ」

2)"知識テーゼ"
「世界に存在するものや、それを統べる秩序について、私達は正しく知ることができるはずだ」

 私は、1)も2)も、生活者としては認めるし、それで生活を営んでいる(はずだ)。また、学知者(学者ではなく)としても、考察の第一次接近としては、両者を仮に認めたうえで考察を進める(はずだ)。

 では、少し考えてみる。

 上記2テーゼを援用して、一つの文を作ってみよう。

「自然法則は、わたしたち人間の認識活動(=自然科学)とは独立して存在し、それを私たちは正しく知ることができるはずだ。」

 ふむ、なるほど。もっともな言明といえる。

 すると、この言明は

「この世界に物理学の教科書が存在しなくとも、「物理」は悠久の過去から、無限の未来まで、存在していたはずであるし、存在し続けるに決まっている。」

ということを含意するだろう。

 とすると、例えば素朴にこう思うわけだ。物理学の教科書が存在しない古代メソポタミアのウル王朝でも、物理法則は存在していたが、その当時の人々は、今日言うところの物理法則は知らなかった。すると、彼らにとって、物理法則は存在している、と言えるのか、と。

 また、こういう言い方も可能か。

「物質的に存在するものは、自然法則の枠内で記述できる。また一方で、自然法則はあきらかに存在する。ならば、自然法則そのものはどのようにして自然法則によって記述できるのか。仮に、記述できないのだとすれば、自然法則は物質的なものではないのだろう。しかし、明らかに認知可能で、心とは独立して、客観的に存在すると思われる自然法則が、物質的なものではない、とするならば、いったいそれはどういう身分として、この世界に存在しているのか。(What exists materially can be described within the framework of natural laws. On the other hand, the laws of nature clearly exist. Then, how can natural laws themselves be described by natural laws? If they cannot be described, then they must not be material. However, if natural law, which is clearly cognizable, independent of the mind, and seems to exist objectively, is not material, then what kind of status does it have in this world?)」

 ここには、カテゴリーミステイク(Category Mistakes)があるかもしれない。しかし、自然科学の根本には、この世界は、究極的には自然科学という単一のカテゴリーで記述し尽くせるはずだ(This world can ultimately be described in a single category of natural science.)、という信念(=強迫観念 obsession ?)があると思う。したがって、以上の言明も、究極的には、自然科学にとって決着をつけなくてはいけない問いなのではないか、と思われるが、どうだろうか。

 ということで、今回の私の頭の体操はこれまで。

〔参照〕
「哲学の自然化」?
「哲学の自然化」?(2)
物理法則に物理量は存在するか?(1)
物理法則に物理量は存在するか?(2.3)
物理法則に物理量は存在するか(3.1)

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コメント

F.Nakajima さん、どーも。

 小平邦彦は、東大の数学教室と物理学教室の両方を出た数学者で、当初の関心もこの二つの境界領域にありました。ていうか、数学だけだと食べていけない、という事情だったかもしれません。プリンストンに移ってすぐに成果を出し始めたのも、これに関連する研究だったようです。そのためもあるのか、彼は、現実世界には、数学的構造が埋め込まれていて、数学者はそれを「数覚」で発見するのだ、といっています。

 これが面白かったので、たまたま一般的向けの、広中平祐の講演を聞く機会があったので、講演後、「世界には数学的構造が埋め込まれていると思うか」と聞いてみました。すると彼は「地球には地球人の数学があるように、火星には火星人の数学がありうるんじゃない?」とサラッと答えてくれました。

 これは、小平邦彦と対極的な、ポアンカレの数学観そのものであると、今、私は理解しています。

投稿: renqing | 2007年7月 3日 (火) 12時46分

ちょっとおじゃまします。
まず、ポアンカレの件について書籍を借り受けて検討しましたが、私の直感主義という見解は撤回します。

ただ、ポアンカレが数学について述べるのに物理を例に挙げるのが少し気にかかるのです。数学はあくまで数学の中の領域だけを扱うのに対し、物理は現実に存在する(と思われる)何かに対して数式などを使ってそれが何なのか解いていく学問(理論物理学など)なのであの文章だとミスリードの可能性があると思います。

後、関連した面白い話としては「数学的実在論」が上げられるでしょう。つまり、
>明らかに認知可能で、心とは独立して、客観的に存在すると思われる数式が、物質的なものではないのは当然として、いったいそれはどういう身分として、この世界に存在しているのか。」という論題です。
多分、探究を重ねるうちに類似したこの問題と出くわすことになると思います。楽しみにしていてください。

投稿: F.Nakajima | 2007年7月 2日 (月) 23時15分

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