中国人は「漢文」を読めるか(1)
知人から概略、以下のような質問を受けた。
質問1.現代中国人は、いわゆる日本人が高校で習うような「漢文」を、中国語として無理なく読めるのか。
質問2.高校漢文などで習う「漢文訓読法」は、外国語の古典として「漢文」を読む際には意味があるのか。
これについて、「漢文訓読法」にも、外国語としての「中国語」にも素人の私が答えるのは赤面の至りだが、その周辺のことで見聞したことがないこともないので、少し書いてみることにする。明らかな間違いや誤解もあるかと思うので、気が付かれたら、コメント戴ければ、幸いである。
1)いかな生粋の中国人でも、古典語としての中国語を学習、訓練していなければ、いわゆる「漢文」、つまり古典文語としての中国語は理解できない。
これは、日本列島で生を受け、現代日本語の会話、読み書きが不自由なくできても、たんなるその事実のみでは、平安文学が理解できないのと同じでです。
おそらく、現代ギリシア人でも、古典語としてのギリシア語を学習しないかぎり、原文では、プラトンもソフォクレスも理解できないではないでしょうか。だから、普通人が気軽によめるのは、現代ギリシア語訳だと思います。
結局、古典とは、古代人が古代語で書いたものなのだから、それなりの知的準備が必要だということです。
2)現代の中国人は、現代中国音で、古典中国語を読む。
これは、現代の教養ある日本人が、たとえば、谷崎潤一郎あたりが、書斎で万葉集を読むとき、古代日本語の音韻に注意しながら読んだりしない、のと同じです。奈良時代の日本語には母音が8つあったと言われています。
3)中国語の世界とは実は、多言語の世界なので、例えば、広東語を日常語とする中国人は、広東語で古典中国語を読み、北京語ないし、普通話を日常語とする中国人は、それで古典語を読む。
中国語には、現代でも、八大方言といって、有名どころでは、北京語(いわゆる北京官話、のちの、普通話のベースになったもの)、上海語、客家語、 広東語、福建語、のような、方言があります。それぞれに native がいて、それぞれの native がそのまま話したら、お互いに通じません。
解放前の中国ではありますが、魯迅(浙江省紹興の出身)が地方で(どこでだったか失念)講演する機会には、彼のなまりがひどくて、通訳がついたようです。ちなみに、たしか、魯迅は、彼の身の回りの世話もしていたその通訳の女性と結婚しています。
香港映画を北京の映画館で見ると、中国語の字幕が付きます。北京人は広東語が分からないからです。
この言語状況は、古代ならより甚だしいはずです。そこで、秦の始皇帝は、中華世界の統一のために、話される音の世界を統一しようとはせず(古代の テクノロジーでは無理ですから)、テクノロジーとしての書記法で統一をはかりました。それが小篆です。これによって初めて、中央権力が中国各地へ公的命令 を文書として発給することが可能となったわけです。
つまり、中国という、古代から、非常に広大な、かつ多人口、多言語を包摂する混沌とした世界=宇宙に、一つの人工的秩序をあたえるものが、漢字 だったわけです。それは、「音の断念」ゆえに得られたパワーでした。無論、中国語の言語としての特質も関係しますが、素人としてそこまで言及する知識があ りませんので、歴史社会学的な側面のみの話です。
漢字のこのような性格のため、ある種、容易に、全く言語構造を異にするにも関わらず、古代の朝鮮、日本、ベトナムにも、書記法というハイテクノロジーとして、まず支配層に浸透したわけです。
だから、漢字そのものが、高度に、政治的、知的もので、そもそもが庶民には手の届かない、貴族的なしろものだったと考えたほうがよいでしょう。
4)いわゆる「読書人」 intellectuals or the educated classes でなければ、いかな中国人でも、古典文語としての中国文=漢文は読めない。
1)の反面です。この事実は、古代中国から、現代中国まで同じです。なぜ、中国人が、知識人を「読書人」と言い習わしてきたかといえば、古典中国語で表記された文を読めるかどうかが、その知的断層を飛び越えられるかどうかの基準だからです。
現代中国にまで存する懸絶した二つの世界、つまり、中国人エリートたちの持つ知的貴族性は、日本には(幸いなるか不幸なるか分かりません)、かな 文字の発明により存在しません。というか、その断層は曖昧となりました。これが、中国人の社会と日本人の社会の質の違いを生み出してる一つの要因になって います。
5)日本の漢文訓読法は、過去の遺物か。
これについては、中国語を含めた外国語に弱い私などより下記のサイトを読んでみてください。
日本で発達した漢文訓読法は、日本語話者にとって、歴史的に高度に洗練された技法であり、知的遺産です。これを現代中国語音読法と代替的に考えるのは愚かなことです。
今は、全くダメですが、高校時代の一時期、漢文に熱中した瞬間があり、このときは、詩文なら初見でも結構、白文で読めた記憶があります。これも一種の語学なので、続けてないため衰え無くなってしまいました。
参照サイト
漢学と中国語
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コメント
http://homepage2.nifty.com/kanbun/izanai/izanai1/02-02nyumon2.htm
大学の第二外国語に中国語を選んだので、大分忘れてしまっていますw
上のサイトが参考になると思うのですが、文語でも2500年の時を隔てると、ここまで違ってきます。
但し、舌を滑らせると中国の場合、「科挙」の存在が話をややこしくさせてしまいます。科挙というのは中国の「国家公務員試験」ですけど(一応wikipediaをお読みください)、その問題というのが、儒教の古典である、四書五経から出題されていました。ですからこれを受けようと思うものは、主だった注釈(これも膨大な数になる)も含めて全部丸暗記せねばなりません。清朝滅亡までは、文章を読める人間はこれらを理解できるのが普通のこと、だったと思います。
投稿: F.Nakajima | 2007年7月16日 (月) 14時25分
あと追伸で、たとえば筆談のときなどに古典漢文そのままの表現をすると、現代の中国の人はどう感じるのだろうか、とか興味あるところです。こんど旅行する時にでも試してみましょうかね。
投稿: まつもと | 2007年7月16日 (月) 00時59分
Fujiwaraさん、はじめまして。上の「知人」です。たいへん勉強になります。
> 文章中国語は漢代よりほとんど変化を遂げていない
素朴な疑問に、高校で漢文を習うときの躓きの石に、あの読んだり読まなかったりする助字とか語法、「而」とか「于」とか「而已」などがあると思うのですが、じっさい中国語圏に旅行してもまず見かけないのはなぜか?筆談しても「聞道」とか書く人がいないのは?ということがあって上のような問いになったわけです。
これらは白話文の興隆とともに使われなくなったのでしょうか。それとも私が知らないだけで、中国の生徒さんや学生さんは学校でちゃんと習うのでしょうか。
投稿: まつもと | 2007年7月16日 (月) 00時56分
さて、この質問における前提条件として中国の「古典」というのが何時から何時までというのが、問題になりましょう。
四書五経あるいは、それより遡るいわゆる「金石文」については、簡単に読むことはできません。金石文字の、どれがどの字なのか一見しただけでは、判別がつかないためです。しかし現代文に文字を書き直したものについては、読むこと自体は不可能ではありません。但し、文章はかなり晦渋なものです。
時代をだいぶ下って、現代の中国人なら明代に書かれた西遊記なら読んで理解できるでしょうし、三国時代に諸葛孔明の書いた出師表ですら解るでしょう。それより遡って史記すら大意を掴むのは苦もなくできるでしょう。(私だって読めます)
但し、例えば漢詩は近代のものでも読めないものが多々あります。これはわざと晦渋な文句を使っているためです。それに対し白楽天や陶淵明の詩なら、そう難しい字句を使っているわけでもありませんから読むのは難しくありません。又、特殊な文章、例えば日本語における判決文や行政関係などの特殊用語・表現で書かれているような文章は読むのに一苦労です。
これは、口語体は各地で変化を遂げたのに対し、文章中国語は漢代よりほとんど変化を遂げていないことによります。
但し、文章が読めたのはいわゆる士大夫階級に限られるのもまた事実です。おそらく人口の大多数を占めた農夫などが文字を読めたとは思えません。
投稿: F.Nakajima | 2007年7月16日 (月) 00時36分