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2007年8月27日 (月)

「支配の正当性」雑感

「国家が存続するためには、被治者がその時の支配者の主張する権威に服従することが必要である。では被治者は、どんな場合にどんな理由で服従するのか。この支配はどのような内的な正当化の根拠と外的な手段とに支えられているのか。」
 マックス・ヴェーバー『職業としての政治』岩波文庫版、pp.10-11

 Max Weber が類型化する「内的正当化の根拠」は、以下の有名な三か条である。

1)伝統的支配
2)カリスマ的支配
3)「合法性」による支配

 さて、つらつら思うに、どのような支配者、「王」であれ、悪政、苛政、はたまた失政をやらかしたり、それを重ねたら、いくら下々の被治者=庶民で もさすがに怒るだろう(たぶん)。悪意ある支配者にいくら苛められても、アホな支配者に何度も失政をやられてその被害を蒙っても怒らないのは、精神的奴隷 か、あっさり「精神の死」というしかなく、被治者というより、禽獣、家畜というべきだ。

 だから、いつ、いかなるところでも、戦争による甚大な戦死者や被害者が出たり、自然災害の被害をある程度の範囲内に抑えることができず、結果的に莫大な餓死者が出たりしたら、被治者にとってその支配者の正当性の観念はゆらぐにちがいない。

 してみると、社会の多数者である被治者、民衆を餓えさせないとか、惨めな生活にさせない、あまつさえ理不尽な政治をして苛めない、というのは、生活の日常性にとり最低限の目に見える「正当性」の根拠と考えられる。

 だとすれば、いくら「万世一系」の「すめらみこと」の統治であったとしても、また圧倒的「武威」と「東照神君」の鬼神の如き智謀により天下一統が なったとしても、生活が目に見えて困窮すれば被治者は怒るのであり、被治者庶民が怒れば、支配の正当性どころではなくなるだろう。それは民主政下でもなん ら変わりはない。

 つまり、庶民にとり、王や治者に「仁政」や「善政」ができているのかどうかは、政治の場において常に試されている事実上の「支配の正当性」の明白な根拠ということになろう。

 徳川氏の治下に出現した「仁政」や、それによって被治者から慕われた名君や、民百姓によってその事蹟を顕彰されたりする名奉行、名代官がいたこと は、歴史学的イデオロギー批判に晒すだけでなく、「政治」や」「統治」の意味を再考する一つの素材を提供しているのではないか、と思うこの頃なのである。  

 前近代社会における「善い政治」というものが、現代の我々に無縁とは思えない。

※参照
Max Weber権力理論に対する Otto Brunner からの批判(1)

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