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2007年11月28日 (水)

Adam Smith による社会契約論批判

 以下、

 大道安次郎「近代自然法」、新版 社会思想史辞典 新明正道編著 創元社(1961年) 、pp.116-117

からの引用。

(1)政府は何ら契約について考えられていないところにも存在している。
(2)かりに政府の権力を最初ある条件のもとにある人に託したとすれば、これを託した人々の服従はその契約に根拠をおくことは事実であるが、彼らの子孫はこれに何らの関係をもたない。だから彼らはこの契約を知らないし、したがって彼らはこれによって拘束される義務はない。
(3) 原始契約の制定にしたがえば、彼らが国土を去るや否や彼らはもはや一国の臣民ではなく、国家に対する一切の義務からのがれるものであると宣言しうるのであ る。しかるに、全ての国家はなお彼らにその臣民たることを要求し、かかる行為を罰する。また契約が存するならば、その国を慕ってきた外国人は、この契約に 対して最も明白な同意を表したものといわねばならぬのであるが、その国家は、外来の外国人をもって彼らの母国に対する偏愛を有するものとして、国内に生ま れた自由民ほどには彼に期待をかけない。

 上記は、以下の書からの、大道による要約。

 Adam Smith, Lectures of Justice, Police, Revenue, and Arms, ed. by E. Cannan, 1896.

 つまるところ、18世紀のスコットランド啓蒙とは、「社会契約論への反革命」の別名でもあった、ということだろう。その思想史上のコンテクストは別の機会に検討してみる。

〔参照〕権力起源論としての「社会契約説」に対する二つの批判(1)

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