存在という不可思議
宇宙誕生から約135億年。また、今から63億年後には、太陽のサイズは現在の170倍に膨張し、水星と金星は太陽に飲み込まれ、そのときの質量放出で地球の公転軌道はより外側に押し出される。ここまでの天変地異があれば、人類はおろか生命が地球上に残っている確率は無限小だろう。
そんなことを思えば、「役に立つ」とか「価値がある」という嗜好は、unco のようなものか。己自身のこの世への登場が不思議なのだ。驚くべきは、「I was born」。
存在することの驚異、不可思議さ。それに思いを巡らすことも時には悪くない。
※下記、足踏堂さんのTB記事をご参照されたし。
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コメント
足踏堂さん、どうも。
「内村においては、自身のキリスト教的信仰と立身出世主義が隔たってはいなかったような気がします。」
同感です。内村は、譜代・高崎藩藩士の倅で、「明治維新」前後はかなり苦労したと思います。その出自が己を顕すことへのモチベーションになったとしてもおかしくありません。
投稿: renqing | 2007年11月 7日 (水) 04時02分
ご紹介ありがとうございます。
内村鑑三が、天国に行けばいい、という当時のキリスト教徒の考えに対して、生まれてきたこの国この時代において、「足跡を残すべし」のようなことを言っておりました。
内村においては、自身のキリスト教的信仰と立身出世主義が隔たってはいなかったような気がします。よくわかりませんが。
しかし、それでも、やはり、その感覚はキリスト教的「来世」信仰に裏打ちされていたものだったように思います。
renqingさんが仰られるように、宇宙のひとつの運動の砂塵のような存在として自分を捉えれば、そういう感覚にはならないような気がします。
さて、そんな時代を生きるわれわれの倫理は何でしょうか。
そこが問題ですが、renqingさんが仰られるように、ひとまず、この自身の存在の不思議さ=無価値さを知ることが前提でなければならない気がしています。
投稿: 足踏堂 | 2007年11月 5日 (月) 16時34分