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2007年11月13日 (火)

spontaneous generation ではなく、 historical generation としての liberal democracy(論理的時間と歴史的時間)

他所様のところへ書いたコメントの再述(すこし改変)と追記。

 禁欲的プロテスタンティズムは、共同体内-外の区別を破砕し、家族内-外、つまり、「身内の論理」をも無くした。これが、近代において、「個- 人」が共同体から析出されてくる、という意味でもあった。そして、その諸個人は、共同体の代わりに、自らを守るため、近代主権国家を「選択的」、つまり自らの意志によって構築する道(=社会契約)を選ばざるを得なくなる。

 community の崩壊は、「ホッブズ的自然状態」を現出させる。このとき、この人間集団を危機から救済するのが、正当な武力(=暴力)行使の独占を目指す近代主権国家である。ピューリタン革命後のクロムウェル護国卿によるプロテクター政権がそうだし、フランス革命後の公安委員会独裁もそうである。

 そして、この近代主権国家の枠組みを歴史的遺産として継受しつつ、liberal democracy は一世紀を費やして、主権国家のliberalization を図ってきた。

 だから、UKやフランス共和国の liberal democracy は、ちっとも voluntary でも、spontaneous でもない。それらは、その国民たちが悪戦苦闘し、その目指すものと結果的に少しずつズレながら、やっとこさっとこ historical に出来上がってきたものなのだ。

 したがって、社会契約の理論は、positive theory ではなく、normative theory であり、出来上がった主権国家の批判理論として、そのliberalization 過程において実際「役に立った」訳である。 liberal democracy は、禁欲的プロテスタンティズムの目的ではなかったが、その結果ではあったと言える。

 その地点から見直せば、明治軍事独裁政権の問題点は、その独裁性にあるわけではなく、「近代主権国家」を創出し損なったことにあることになろう。

 歴史的には、絶対王政が中世的な「理非の判断権分有の原理」を包摂する過程が、一つ目の community の危機としてあるが、この絶対王政も近代主権国家そのものとは言いがたい。近代主権国家が引き継いだ衣鉢であることは間違いないが。

 例えて言えば、England において、共和国によって1649年断頭台の露と消えたチャールズ1世までの王政と王政復古(the Restoration)後の王政とは国制として異なるということである。

 絶対王政出現の論理的過程と歴史的経過とは別に論じなくてはならない。

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