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2007年12月28日 (金)

Weberだけがビョーキじゃない

「画家を志しながら、父との葛藤のなかで科学者となることを選んだことが、ジェイムズの生涯につきまとう深刻な憂鬱症をもたらしたことは多くの伝記作家たちの格好の題材となってきた」
W.ジェイムズ『純粋経験の哲学』岩波文庫(2004年)、p.267、解説(伊藤邦武氏筆)

 いやー、親による子への人格的抑圧とその身体的応答としてのdepressionっていうのはよくあるものだ。

 たまたま、その抑圧される子が飛びぬけて聡明だと、Weberやこの William James のように、学問的探求が(密かな自己救済として)猛烈なenergyを投入して行われるため、人類への貢献となることもある。うーん、本人にとってはいい迷惑だろうが、非当事者としては、裨益すること大。ちょっと申し訳ないような複雑な心境だ。

 そのころ、19世紀末から20世紀初頭にかけて、「現代の哲学をとり巻く状況には、誰もが気づかずにはいられないような奇妙な不安定感が漂ってい」(前掲書、p.46)たらしい。

 この状況への応答が、「〈物心二元論の克服〉および〈直接与件への還帰〉というテーゼは,W. ジェームズの根本的経験論,ベルグソンの生の哲学,西田幾多郎の純粋経験論などと軌を一にする19世紀末の基本思潮であった」(野家啓一筆「経験批判論」、平凡社世界大百科事典1998)。無論、これに、Ernst Mach と Husserl の現象学運動も含まれる。

 この話題は、Stephen Toulmin の提出した枠組みを使うと興味深い議論に発展する。が、今の私はそんなことをやっている場合ではないので、後日に期す。興味をもたれた方はご自分で検討してみて下さい。見通しが立ったら教えてね。

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