「悲しみ」の悲しみ
藤原正彦は、言論家としては unco 以外の何者でもない。ただ、随筆様のものであれば、彼が優れた書き手であることは、この私でも認める。
さて、彼の秀逸な随筆なことである。題名を「得失の不公平」という。収められてるのは、下記の本らしい。らしいというのは、あるきっかけでたまたまこの文章を眼にしただけだからだ。ご関心をもたれた方は、図書館なりからでも借りて読まれたし。
「何かを得た時の喜びと、何かを失った時の悲しみは、まったく質が異なると思う。前者が比較的に短期間で断続的なものであるのに、後者は長期間で連続的なもののように見える。得たものはいつも身の回りにあるせいか、時日をおかず現実の一部となるのに、失ったものは二度と取り返しがつかないから、その空洞がいつまでも胸に迫るのだろう。喜びや幸せに比べ、悲しみや不幸の方が深く永続的、というのは人間の負う最大の不公平かと思う。」
私もその場面をしばしば眼にする時がある。老母は、父が逝ってからもう四半世紀になろうかというのに、話し出せば仕舞いには涙声になっている。苦労させられた恨みをポツリと漏らしながらも、必ずそうなってしまう。
この随筆の筆者も言うように、「二度と取り返しがつかない」という悔恨が、亡き人の元の居場所の空間を満たすのだろう。そしてそれはなかなか日常の一部とはならない。
ただ、もう少しその奥に何かあるような気がする。
親しい人、近しい人を失ったときの悲しみは、「私」の悲しみ、だけなのだろうか。
いやそうではない。お気に入りの大事な小物を失くしたら、悲しみ、後悔するだろうが、その程度の痛みなら日常に取り紛れる。しかし、人はものを思う。逝った人は、生きていれば悲しむこともあっただろうが、喜ぶこともあったろう。故人の嬉しそうな顔を己がなさしてあげられなかった、その亡き人の残念であろう心を思いやると、それが辛いのだ。もうその悲しみに寄り添うことさえできない。
他者の悲しみ、他者の痛みを思う悲しみ。
自分が痛み、悲しむのなら己が我慢すればよいこと。他者の、まして、すでに亡き人の悲しみは、その身代わりなど生者にはできない。その痛恨事が日常化を拒む。
人は、悲しみや痛みにおいてなら、つながりあうことができるのかも知れない。
*藤原正彦「得失の不公平」
藤原正彦『古風堂々数学者』新潮文庫(2003年)、所収(らしい)。
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