« 事実の重みに耐える | トップページ | 開発援助“帝国主義”(さらに少し追記) »

2008年4月10日 (木)

ロゴスという名のエコノミスト(A economist of the name to call Logos)

 久しぶりに再読して、その見事さに感じ入ったエッセイが下記。所収されている単行本も品切れなので、短いこともあり、全文、掲載することにした。著作権の問題はできれば目をつぶって戴きたい。所収本は、アマゾンのマーケットプレイス(古書)でもごく安価だ。興味をもたれた方は、購入されてしまうことをお勧めする。小見出しは、renqingが付けた。blogという媒体上、比較的長い文にはマイルストーンが必要と感じたためである。著者の意図をいささかでも損なわないことを願う。

〔補註2008/04/10〕「ロゴス」に関しては、下記もご参照戴ければ幸甚。
教皇ベネディクト十六世のレーゲンスブルク大学での講演 信仰、理性、大学――回顧と考察 (2006.09.12) (2)


関曠野「欲望を思考する」(1985年) 
 〔 同著『野蛮としてのイエ社会』御茶の水書房(1987年)所収、pp.345-347 〕

■現代思想、誕生の日付
 現代の思想はいかなる思想として特徴付けられるのかと人にきかれたならば、私としては、それは明確な誕生の日付を持ち一つの歴史的な事件として生成している思想なのだと言いたい。つまり現代思想とは十九世紀における西欧文明の危機に源を発する思想のことなのだ。たとえ今日ヨーロッパの地位が急落し、到るところで「反西欧主義者」が旗揚げしているとしても、これは十九世紀西欧の危機が汎世界的な現象に拡大したことを意味するにすぎない。そして無数の善悪双方のデーモンを解き放ったこの危機を最も見事に体現している思想家がヘーゲルとマルクスであることは、マルクス主義者であるか否かを問わず、誰もが承認せざるをえない事実である。

■存在から欲望へ
 ヘーゲルはヤヌスのような、二つの顔をもつ思想家である。理性と悟性を区別するヘーゲルの思弁哲学は西欧合理主義のクライマックスをなした。だが同時にヘーゲルによる理性と悟性の区別において、西欧人の思考の基底は、理性と存在から欲望と歴史に移行することになった。ヘーゲルの理性の哲学が克服の対象としたカントの悟性哲学は、多くの点で西欧の伝統的な法学的人間概念をラディカルに実現するものと言える。カント哲学の主役をつとめる人間は法学的な「人格」Person としての人間、権利と義務と価値の概念によってその存在を規定され、「我ノモノ」と「汝ノモノ」の区別の上に立って契約により相互に拘束し合って社会を形成する人間なのである。

■ロゴスの正体
 ところがヘーゲルにおいては、人間を根本的に規定しているのは欲望である。しかも欲望こそ意識と精神を生み出す。なぜならば欲望することは即ち、他者において他者と共に他者をとおして思考することにほかならないからである。それゆえに、人間の欲望とは他者を思考し欲望することであるかぎり、人間の思考には当初から政治経済学の刻印が押されていることになる。言いかえれば、ヘーゲル哲学は潜在的に経済学なのであり、他方で古典派経済学も、抽象的存在を追求することへの奇妙な欲望に囚われ、市場と価格という現象を超越する「価値」なる実体に固執しているかぎりおいて、潜在的に哲学なのである。この問題連関を背景として、若きマルクスは、後に「経済学=哲学手稿」と呼ばれることになる一連の論文を書くことになる。スミスとヘーゲルの批判者マルクスが予感したのは、神と法と真理の仮面をかぶった西欧のロゴスの正体は折り紙付きのエコノミストだということだった。

■ロゴスの自己愛
 ソクラテスからヘーゲルに到るまで、このロゴスは、己れの内なる他者への欲望もしくは他者としての己れへの欲望に呪縛され苦しめられている。だからロゴスは欲望の問題性を深く考えてみようしない。それは〈知への愛〉の外見の下に思考から労働へと遁走し、労働によってその欲望を充たす。それは労働によって己れの分身としての他者を生み出し、他者の生産過程を支配する主体として自身と和解し、自己同一的な存在となる。そしてロゴスによるこのような他者の所有には、どこかわいせつなものが感じられる。というのもそれは他者に己れの欲望の否定性しか見ず、しかもその他者の実体はロゴスの自己愛の所産にすぎないのだから。実際、合理主義に生の哲学や神秘主義を対置したところで、何もならないのだ。問題は合理主義を一つの欲望として暴くこと、理性とは特定のわいせつな欲望の別名であることを見抜くことなのである(そういえば六十年代の学園の叛乱は、理性なるもののわいせつさに対する反発と反感から起きたのではなかったか)。

■欲望の政治性
 現代の思想は、十九世紀西欧における存在から欲望への思惟の転回の帰結を辛抱強く歩み続けている。この転回の発端にあったヘーゲルによるカントの法学的人間学の破砕は、ロマン主義の時代を背景としていた。身分制社会の崩壊が、欲望する孤独で自由な個人を生み出したのだ。しかしマルクスにおいては、欲望は近代テクノロジーの問題性と結びついている。テクノロジーの影響力の拡大によって人間と現実との関係がますます流動的、可塑的、相互浸透的なものになってくるにつれ、欲望の歴史性は切迫したあらわな問題となってくる。貨幣・商品・資本を論ずることも、究極的には、一体我々は何ゆえに何者としてどのように欲望=思考するのかという問いに帰着するのである。そして消費文化の大洪水とは裏腹に、現代人は自分の存在を瓦解させかねないこの危険な問いを - 恐らくダダイスト唯一の例外として - 懸命にはぐらかし続けてきた。人間の欲望は常に他者にかかわり、それゆえに本来政治的な欲望であることが相変わらず理解されていない。ロゴスという名のエコノミストは未だ健在である。北のテクノクラートも東の党官僚も、思想の欠如を取り繕うべく欲望の自明性と直接性という信念にしがみついている点では、ポルノショップの客とえらぶところがないのだ。

|

« 事実の重みに耐える | トップページ | 開発援助“帝国主義”(さらに少し追記) »

思想史」カテゴリの記事

書評・紹介」カテゴリの記事

西洋」カテゴリの記事

関曠野」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/104369/40836092

この記事へのトラックバック一覧です: ロゴスという名のエコノミスト(A economist of the name to call Logos):

« 事実の重みに耐える | トップページ | 開発援助“帝国主義”(さらに少し追記) »