太閤検地の再検討
少し前に、石高制について四回ばかり記事(下段・注参照)を書いた。今回気になり、その記事を自分で読み直したら、幾分おかしいことに気付いたので、再述する。
中身は、池上裕子『織豊政権と江戸幕府』(日本の歴史15)、講談社(2002年)、第五章、「1 太閤検地の再検討」、pp.172-190、のリライトである。
同著のその節における池上氏の本来の意図は、これまで、戦後マルクス主義経済史学の強い影響力の下で結果的に日本近世史上、特権視されてきた「太閤検地」を、中世、または戦国期からの連続性の中で検討することを通じて、「太閤検地」を妥当に評価し直そうというものである。しかし、私の目的は、その内の「石高制とはなにか」という部分に限定される。ただ、その限定した目的だけでも、事が少々ややこしいので、頭の整理には役立つと思う。
■斗代、ほかの再定義
言葉でのみ記述することは、池上氏の記述と結果的に同じものになってしまうだろう。したがって、できるだけ計算式風に表現してみる。まず、斗代。
①斗代 = 本年貢(領主の取り分)+ 加地子(小作料)
室町中期から戦国期にかけて、各地の領主支配は弱体化した。したがって、自立を強めた惣村に立ち入れず、以前に設定した斗代を維持するのみであり、そのうえ、現地(村)での有力支配層の取り分まで発生した。それが加地子である。そのため、村側での斗代というもののの受けとめ方はこうなる。
②斗代 = 年貢
つまり、こうである。
③斗代 = 年貢 = 1反当りの年貢収納高= 本年貢 + 加地子
では、この斗代概念を前提にして、石高制のロジックを積み上げてみる。
④石高 = 田畠面積 × 斗代
⑤村高 = 村内の石高集計値
⑥年貢高 = 村高 × 年貢率(何割何分)
⑦知行(所領) = 村高を各大名や家臣に宛行ったもの
■多数説と池上説のちがい
多数説と池上説の違いを際立たせるために、あえて現代的表現を使ってみると、こう表現できるか。なお、ここでいう「所得」とは、国民経済計算で使う、生産額のことである。
○多数説
年貢高=石高(生産高、つまり米換算された所得数値)× 年貢率(所得税率)
○池上説
年貢高=石高(年貢収納高、つまり課税ベースの数値)× 領主取り分比率
ここで、領主取り分とは以下の意味でもある。
年貢収納高 = 領主取り分 + 村取り分
結局、池上説において、石高制、ないし知行制における石高とは、生産高(国民経済計算でいう所得額)ではなく、年貢収納高の領主取り分可能最大値(直接生産者の最小取り分を控除済みの課税ベース額)、ということになろうか。
■議論1
実際の年貢収取の実物面において、農業生産力水準の低さやら天候異変やらへの耐久性の低さから、多数説と池上説がたいした違いを生まないケースは多いだろうと思う。しかし、石高が「ガラス張りの全所得額」か「たんなる課税ベース」かは、支配者層、被支配者層の意識の面においては全く異なると考えるべきだ。当然、用語もその意味内容も時代の推移によって変化するので、池上氏の異論が徳川期のすべてに通じるものかどうかは、専門家に判断していただくしかないが、少なくとも、織豊政権期、徳川初期において、池上説の妥当の可否は、判定可能だろうし、判定すべきだろう。ことは、支配権力の性格如何まで影響するからである。
■議論2
すでに過去記事でも述べたが、室町・戦国の銭経済から徳川初期の米経済への変化を、貨幣経済から実物経済への「後退」とし、それを問題とすること自体はナンセンスである。「米」が新しい時代の「特定目的貨幣 special purpose money」になっただけであるから。その一方で、豊臣政権、徳川政権は全国各地の貴金属鉱山を直接支配下に入れ、産出量の向上、新鉱脈の開発に注力し、貴金属貨幣の発行も視野に入れていた。トータルで見れば、米遣い経済への変更は、大陸の大明・清国の政治経済的影響力を遮断し、海外交易による莫大な利益を徳川氏が独占するということもあってのことだろうと考えられる。
以上。
〔参照1〕
「石高制」ってなに?
「石高制」ってなに?(2)
「石高制」ってなに?(3)
「石高制」ってなに?(4・結語)
〔参照2〕
慶長三年のGDP: 本に溺れたい
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