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2008年7月18日 (金)

思想史研究における生産者主権と消費者主権

 思想史の研究には、大別して二つのアプローチ、ないし目的があるだろう。

 一つは、《思想》史である。つまり、歴史的に実在したある特定の人間の思惟の過程、その帰結、達成、影響を、できる限り内在的、詳細に理解した上で、研究者の立場から現代的意義を考えること。

 二つめは、思想《史》である。ある特定の時、場所に芽生えた、ある個人の思惟が、いかなる文脈(時代的、地理的、社会的)のもとで誕生し、人々に受け入れられ、流通し、変容していったのか、を可能な限り理解したうえで、その一連のプロセスが、 研究者の生きる現代にとっていかなる歴史的意味を有しているのか、を考えること。

 以上の二つである。そして、いささか唯物的(「唯物論的」ではない)謂いにはなるが、前者を、「思想の生産者主権」アプローチ、後者を「思想の消費者主権」アプローチ、と名づけてみよう。

 これまで大学アカデミズムでの思想史研究とは、ほぼ前者としての理解だったと思う。例えば、以下のような、優れた概説書などはそうだ。

「 ところで思想史の方法にはいろいろなものがある。・・・。しかしこの講義では、・・・、各時代の主要な思想家、学者の作品を対象として、その内在的な理解に重点をおくことにしたい。いわゆる「頂上史」の手法をとりたいということである。」 平石直昭『日本政治思想史』放送大学教育振興会(1997)、まえがき、pp.3-4

 後者は余り多くはないが、下記などがそれに該当*しよう。

「その書籍がその時代においてどのような役割を演じたのか、時代における書籍の文化をときほぐすには、書籍から著編者の営為に遡源していくのではなくて、どのような人々によってどのように読まれたかをこそ明らかにする必要がある。」 鈴木俊幸『江戸の読書熱』平凡社選書(2007)、はじめに、p.7

 日本の思想史研究において、「思想の生産者主権」アプローチゆえ、アカデミズムにおいて特異に注目を集めてきた思想家の代表格が、安藤昌益だろう。彼が、時代を超越したいかに独創的な思想家だとしても、かえってそれが故に、彼自身は同時代や後の時代にいささかも影響を与えていない。大きな影響を与えたとしたらむしろ現代に対してだ。

 西洋の思想史研究で、「思想の生産者主権」アプローチのため、現代においては忘却されたが、在世当時から一世紀半の間、圧倒的影響力有した思想家の典型が、ユストゥス・リプシウス(Justus Lipsius 1547-1606)**だろう。

 結局、近代の実証主義的歴史学研究の枠組みは、十九世紀にヨーロッパで出来上がったもので、そこにそもそも「思想の生産者主権」アプローチがあり、それを受け継いでいる現代の大学アカデミズムにも、洋の東西を問わず、「思想の消費者主権」アプローチが弱いのは当然なのだろうと思う。この問題も十九世紀における知の枠組みの問題であり、再論を要しよう。




*下記の書も、著作と読み手を方法論的に意識したものだが、なんでもかでも「太平記評判秘伝理尽鈔」の影響、とか、言われると、ど、どーかなー?、と考えてし まう。結局、因果関係が逆なのではないか。つまり、

「太平記評判秘伝理尽鈔」が広く読まれた→ それが武家の統治イデオロギーとなった、

ではなく、

武家の統治イデオロギーが江戸初期に存在した →したがって「太平記評判秘伝理尽鈔」が広く読まれた、

というように。当該書が広く読まれたり売れたりしたこと自体が、そもそもそれが読まれる需要(心性、イデオロギー)があった、と考えたほうがよいのではないかというわけだ。
 若尾政希『「太平記読み」の時代』平凡社選書(1999)

**下記参照。
 山内進『新ストア主義の国家哲学』千倉書房(1985)
 ゲルハルト・エストライヒ『近代国家の覚醒』創文社(1993)




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