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2008年7月 6日 (日)

「自己責任大国」の末路(2・結語)

 人間は、日々の暮らしの中で、さまざまな緊張や葛藤を感じ、心理的ストレスを溜め込んでいる。そして大抵は、その同じ日々の暮らしの中で、溜め込んだストレスを発散させる方法を自分なりに身に付け、ストレスで押し潰されないように生を営む。

 しかし、溜め込めるストレスの閾値や、社会的ストレスが過剰で通常のストレス発散法では許容範囲に押し込めず、個人が耐え得るストレスの臨界点を越えてしまうときが来る。

 そのとき、普段してはならないとされている規範の臨界点をも超える。それが死への衝動である。このとき、その衝動が自己に向かうか、他者に向かうか、という選択肢があり得るだろう。前者が自殺(自己殺人)であり、後者が殺人である。

 どちらに転ぶかは、社会と個人を結ぶ規範のあり方に依存する。簡単に言えば、困難が発生したとき、その責任の帰趨を、他者に求めるか、自己に求めるか、だろう。

 いずれにせよ、自己を含めた殺人にまで、個人を追い詰める、という点においては、その社会ストレス度は同じとみなせる。

 すると、先の図で、大日本国が乗っている境界線 border line に、「ホテル・ルワンダ」で日本でも広く知られるようになった虐殺の地、アフリカのルワンダやブルンジが乗っている意味が明瞭となる。

 つまり、ルワンダやブルンジでは他者へ向かった殺人衝動が、日本では自己への向かったのだ。すなわち、年間自殺者3万人とは、日本社会による、個人への選択的虐殺 genocide に他ならないのである。

 ただし、先だっての、秋葉原無差別殺人やホームレス殺人などをみると、死への衝動は自己から他者へそのベクトルを転換しつつあるように見える。「死にたい奴は勝手に死なせておけ」という選択的虐殺ももう限界に来ている。我々日本人はそのことに気付かねばならない。

■参照
「自己責任大国」の末路(1)
「自殺」考

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コメント

T_NAKAさん、どーも。

>ミクロ経済学の「無差別曲線」

私のアイデアも、実はミクロ経済学から取りました。ただし、「予算線」ですが。
 X+Y=25、の直線は、一人の命は、自分で死のうが、他者に殺されようが価値として同じ、と仮定した場合のトレードオフを、表しています。

ただ、他殺率は、価値や規範のあり方のみでなく、gun control 成功失敗、徴兵制の有無による武器取り扱いや、銃の引き金を引くこと(=殺人)への慣れ、といったことも大きく影響するはずです。

逆に言えば、日本の、非常に低い他殺率は、gun control の成功、徴兵制が無いこと、とも相関するといえます。つまり、物理的に他殺する効率的手段が身の回りにない、ということです。

これだけの社会的心理ストレスがあるなかで、gun control を緩めたり、徴兵制をしいて、すべての成人男女が、銃の取り扱いに慣れ、人体模型に発砲する経験を経たなら、恐らく、すぐさま、図上の直線スロープを坂上がり始めることと思います。

投稿: renqing | 2008年7月10日 (木) 00時40分

「世界各国の自殺率と他殺率の相関」を見ていたら、ミクロ経済学の「無差別曲線」を思い出しました。
おっしゃるように、アフリカのルワンダやブルンジと人体破壊の効用は同じ程度で、発現の仕方が文化の違いかも知れませんね。
「社会不安→人体破壊衝動」ということが成り立つならば、これも発現の仕方が異なりますが、社会不安の程度は同じようなものということになるんでしょうね。

投稿: T_NAKA | 2008年7月 9日 (水) 14時37分

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