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2008年8月 8日 (金)

「あたりまえ」の認識論

 歴史が変わるとは、どのようなことを指すのだろうか。

 いろいろな論点があるだろうが、差し当たり以下のように言っておこう。

 T0  時点での「あたりまえ」のことが、T+1 時点では「あたりまえ」でなくなり、T0 時点で「あたりまえでないこと」が、T+1  時点では「あたりまえ」になること。

 我々の対世界認知(認識)能力には、通常、資源的に限界があり(bounded rationality)、その限られたリソースを有効活用して日常生活を送っている。すると、その際、対象世界の定常性を仮定し、その変化部分のみに注目することで、限られた認知能力にも関わらず、我々を取り巻く万物のなかを暮らせていると考えてみることも可能だろう。

 ある日突然、ガスコンロを捻ると水が飛び出し、水道のコックを捻ると蛇口から火が噴き出すのでは、とてもやっていけない。

つまり、我々の認識世界は想像以上に、「あたりまえ」仮説で構成されている可能性が高いと言える。

 すると、過去の文物や人間たちを観察するとき、今に生きる我々にとり「あたりまえでないもの」は見やすい道理だ。ところが、歴史学上の観測装置であり、観測対象でもある様々な文献や史料は当時の人間が記録したものであるから、当時の人間にとり「あたりまえ」なこと、「説明不要」なことが記録される確率はかなり低いと考えられる。何かを書くということは、自分以外の他者へ、文を通じてコミュニケートしようということなのだから、自分と他者の共通の了解事項(つまり「あたりまえ」のこと)などについて、記述する動機を書き手が持ちようがないからである。

 ということは、歴史学上の最高にして最低限のデータである文献や史料は、「あたりまえ」のことが記録されにくい、という性質を持つだろう。

 歴史が変わったことの最大の証拠が、《T0  時点での「あたりまえ」のことが、T+1 時点では「あたりまえ」でなくなり、T0 時点で「あたりまえでないこと」が、T+1  時点では「あたりまえ」になること》だとするならば、これは歴史学上、最大の矛盾というべきではなかろうか。

〔参照〕弊記事 ※20161208追記
1.複雑系と歴史学
2.インクリメンタリズムと合理性の限界( Incrementalism under bounded rationality )

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