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2008年8月15日 (金)

呪術拒否と無神論

 江戸人は、ほとんど呪術的な力から解放されていた。就中、徳川政権、藩政権の官僚や、市中の知識人などはそうである。その意味では、近代合理主義者の側面を有すると言ってもよいだろう。これは、渡辺京二氏の近著などによって生き生きと伝えられている。

 ただし、それを無神論といってしまうと、いささかミスリーディングではないかと思う。ここで、Max Weber の議論などを持ち出すと、「またかよ!」という苦言も呈されそうだが、彼の宗教社会学などを参照するならば、禁欲的プロテスタンティズムやイスラムなどのタイプの信仰は、創造神を確信するがゆえに、呪術の類からは解放されている。日本でも浄土真宗系の村などには、呪術的なものが駆逐される傾向があること は、網野善彦の著書などにも指摘がある。

 この辺の消息は、Weber の「中間考察」を読み直した折に理論的に再度議論したい。メモ代わりとして書いた次第。

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