溝口・池田・小島『中国思想史』東京大学出版会(2007年)(2)
本書の基本となる構想は以下の引用から伺い知ることができる。
「・・・、宋代から元・明代さらに清代までは、儒教道徳が一部の為政層から庶民のすみずみまで浸透してゆく長い拡汎の過程であったと知ることができる。そしてその儒教道徳とは社会秩序の根幹であると同時に、社会治安の政治秩序を担うものでもあり、その観点からいえば、その過程とはまた政治秩序の担い手が為政層から一般庶民層まで不断に拡汎していく過程でもあった、と見なしうるのである。」本書 pp.169-170
同趣旨の象徴的な言葉として、「民の力量の増大」p.160、もある。
上記のような視点は、中国の歴史から抽出して提出された、というところが本書の貢献である。そして、人類史におけるこの八百年間を、「民の力量の増大」として特徴づけることも可能であろう。それは、イスラムやインドといった文明においても、またこの日本列島においても、共通して看取できることであると考える。
個人的な興味関心からすると、北宋末期の徽宗による祠廟政策(本書p.103、137以下)が明治維新政権の「廃仏毀釈・神仏分離」政策に酷似している点や、朱子の社倉法の意図が「民間活力の利用」(同p.132)にあること、元代から科挙試験における経典解釈が朱子学に統一されるが、それはイデオロギー統制などではなく、科挙試験の採点上語句解釈を統一するために過ぎないこと(同p.167)、など近世日本の画期である寛政の改革と同趣旨である点、が注目される。
教科書としての工夫も各所で見られる。まず、各章の初めにその章の要約をおいていること。そんなことはアメリカの大学テキストの影響の著しい社会科学系なら当たり前のことなのだが、人文系ではまだしっかり定着していないのが実情だろう。その意味で今後影響力を持つであろう本書に、こういった読み手の理解を支援する工夫が見られることは評価できる。事項索引は当然。人名索引がないのが恨まれるが、その代わりに「人物生卒一覧」を巻末においてあり、これは評価できる。王陽明とルターが同時代人であり、乾隆帝、ルソー、戴震、カント、本居宣長がほぼ同時代人、ということに気づくことは、「近代」を人類史の立場から再考する上で、興味深く、大事なことだ。
「中国の思想を知るのではなく、それを通して中国を知ること、それが本書の課題とするところであるといってよい。」本書、はしがき p.i
著者たちによって一つの中国像は刻まれた。その意味で課題は達成されたと言える。あとは、日本史学、日本思想史学の分野からどのような応答があるのか期待したいところだ。
| 固定リンク
« 溝口・池田・小島『中国思想史』東京大学出版会(2007年)(1) | トップページ | 与謝野晶子「何故の出兵か」(1918年)/ For what purpose does our country go to war?, by Akiko Yosano, 1918 »
「中国」カテゴリの記事
- 虹 rainbow(2024.03.09)
- 河津桜(2024.03.03)
- 二千年前の奴隷解放令/ The Emancipation Proclamation of 2,000 years ago(2023.01.29)
- 日本の若者における自尊感情/ Self-esteem among Japanese Youth(3)(2022.09.29)
- 日本の教育システムの硬直性は「儒教」文化に起因するか?(2021.05.18)
「書評・紹介(book review)」カテゴリの記事
- 「自尊感情 self-esteem」の源泉(2024.09.08)
- T.S.エリオットによる、ウォーコップ『合理性への逸脱:ものの考え方』1948、への紹介文(2024.08.29)
- マイケル・オークショットの書評(1949年)、O.S.ウォーコップ『合理性への逸脱』1948年(2024.08.28)
- Introduction by T.S. Eliot to O.S. Wauchope (1948)(2024.08.27)
- Michael Oakeshott's Review(1949), O.S.Wauchope, Deviation into Sense, 1948(2024.08.17)
「Buddhism (仏教)」カテゴリの記事
- The future as an imitation of the Paradise(2022.10.30)
- 日本の若者における自尊感情/ Self-esteem among Japanese Youth(1)(2022.09.28)
- 心は必ず事に触れて来たる/ The mind is always in motion, inspired by things(2022.07.05)
- 欧米的合理主義のなかに内在する不合理は何に由来するのか(2)(2022.02.05)
- 幕末維新期における“文化大革命”/ The "Cultural Revolution" at the end of Tokugawa Japan(2021.02.16)
コメント
abduluzzaさん、どうも。
コメントを拝読すると、人類という存在に随分、悲観的な感想をお持ちであるように推察します。
しかし、カントも言ってるではありませんか。
「人間性という曲がった木から、真っ直ぐな材木を切り出すことはできない」
カント「世界市民という視点からみた普遍史の理念」
と。
人間(少なくとも私は)は愚かですが、そして反省する割には、同じ過ちを繰り返しがちですが、それでも少しずつマシになれるであろう存在だと思いますし、悪や愚への選択可能性があるところに、善や賢への自由もあると、とりあえず思うようにしてます。
投稿: renqing | 2009年5月 4日 (月) 00時21分
ホモ・サピエンスの(農耕都市文明に限られますが)社会に共通する、ここ800年の間の、民の力量の増大・・・ですか。
もしそれが、19世紀の『欧羅巴近代』への
中毒と、その反動としての『○○的価値観』というプロパガンダなしで、各文明ごとの対等な『民の力量の増大を
踏まえた思想』の共存と対立として現れていたら、と思うと、やりきれない思いがします。
そうすれば、今日のわれわれは、感情的なくだらない摩擦などなく、文字通り『自由』に、それぞれの文明で現れた、『民の思想』を摂取し、真の人類文明を築けたでしょう。
現実には、われわれホモ・サピエンスは、それができないまま、21世紀になっても、ヨーロッパへの事大主義と、何の価値もない『○○的価値観』の間の二項対立から抜け出せていないのですが。
投稿: abduluzza | 2009年5月 3日 (日) 16時54分
まつもとさん、どーも。本書、pp.240、にこうあります。
「社会主義時代の中国を見た目では、その時代には旧中国の伝統は大幅に破壊されたかに見えたが、じつは倫理社会としての礼教社会の骨格は残されていた。」第四章、四、最終節「儒教倫理と社会主義」
ここで言う、礼教とは、清代に普及した民衆儒教のことです。ただし、「四つの現代化」(「資本主義」化)以降、儒教の名誉回復は進みましたが、礼教社会としての骨格は、かえって風前の灯となりつつある、とも述べています。
投稿: renqing | 2008年12月21日 (日) 13時34分
renqingさま
面白そうな本をご紹介いただきありがとうございます。さっそくアマゾンに注文を出したところなのであまり知ったようなことは言わない方がいいのでしょうが、
> 宋代から元・明代さらに清代までは、儒教道徳が一部の為政層から庶民のすみずみまで浸透してゆく長い拡汎の過程であったと知ることができる。
清代といわず、人民共和国もそのプロセスに含めることはできないでしょうか。毛沢東「語録」などはその端的な例であるようにも思えます。
投稿: まつもと | 2008年12月21日 (日) 06時36分