徳川文明の消尽の後に
徳川慶喜は、大正2年(1913年)11月22日に没した。享年76歳。1868年の時点で、彼は31歳であった。すると、不本意ながら人生の過半を、明治コンスティテューション下で彼は過ごしたことになる。さて、そうすると、慶喜は江戸人なのであろうか、それとも明治人なのであろうか。
日本における国勢調査は、大正9年(1920年)から始まる。ということは精密な人口データはこれ以降であり、それ以前の人口に関するデータはそれぞれ推計しなければならないわけだ。それはちと面倒なので、第一回国勢調査のデータを使って、大正時代の年齢構成を調べてみよう。
ちなみに、国勢調査の時系列データは下記から容易にExcelファイルとして入手可能である。
大正9年の総人口は、55,963,053人。そこから、15歳未満人口20,416,202人を差し引く。すると、大正9年の15歳以上人口35,546,851人が出る。これが大正9年の大人人口と言ってよいだろう。なにしろこの頃大抵の15歳は既に働いていたのだ。
一方、大正9年の65歳以上人口はといえば、2,941,356人。この時点で65歳ということは、明治維新(1868年)の際、15歳前後であり、一通り大人になるトレーニングを済ませ、これから社会へ旅立とうという大人(予備軍)であり、既に徳川社会の息吹を胸深く吸い込み、脳裏に刻み込んでいる人々ということになる。いわば江戸人だ。
それでは、大正9年の大人社会における江戸人比率を出してみよう。
2,941,356 ÷ 35,546,851 × 100 = 8.3%(大正9年の江戸人比率)
意外にも、大正9年当時、大人社会において、江戸人は1割近く存命していたということがわかる。それは、大正の時代においても、江戸人が何がしかの重みを持っていたことを意味しよう。
ところが、その五年後、第二回国勢調査(大正14年1925)において、70歳以上人口(江戸人)の大人社会に占める比率は、4.6%と半減する。
以上のことを総合して整理すればこうなろう。この列島の近代史において、明治コンスティテューションが、徳川文明の人的影響下から完全に離脱したのが、大正年間である。
故司馬遼太郎は、唾棄するほど昭和初期が嫌いだったという。それが「日本」であるはずがない。本物の素晴らしい日本は別に、その前にあったはずだ。それが彼の明治国家顕彰活動をもたらした。
しかし、司馬は少し勘違いしていた。もし明治に輝かしい日々があったのだとしたら、それは徳川文明を身に宿した江戸人によって達成されたのであり、昭和初期が唾棄すべき時代であったとしたなら、それは明治の御世に大人になった連中、すなわち明治人によって、徳川文明の遺産が消尽された後に、もたらされたものなのである。
〔参照〕 明治エリートの起源
| 固定リンク
「明治」カテゴリの記事
- ‘Unity of Image’ 、「能」から「Imagism」へ / 'Unity of Image' : from 'Noh' to 'Imagism'(2020.10.16)
- 漱石に息づく《朱子学》/ Cheng-Zhu living in Soseki(2020.09.24)
- 「戦後進歩史観」=「司馬史観」の起源について(2020.09.21)
- 近代日本の史家の生没年(2020.09.21)
- 1945年9月2日日曜日(2020.09.02)
「大正」カテゴリの記事
- 菊池寛「私の日常道徳」大正十五年一月(1926年)(2022.06.26)
- Akutagawa Ryunosuke "Rashomon" Taisho 4 years (1915)(2022.06.12)
- For what purpose does our country go to war?, by Akiko Yosano, 1918(2022.05.19)
- 「戦後進歩史観」=「司馬史観」の起源について(2020.09.21)
- 近代日本の史家の生没年(2020.09.21)
「歴史と人口」カテゴリの記事
- 飯田哲也「複合危機とエネルギーの未来」岩波書店『世界』No.952(2022年1月号)(2022.01.10)
- 「自給」と「自然エネルギー」を考える/ Thinking about "self-sufficiency" and "natural energy"(2022.01.03)
- 書評Ⅱ:宇野重規著『トクヴィル 平等と不平等の理論家』2019年5月講談社学術文庫(2021.07.19)
- 書評Ⅰ:宇野重規著『トクヴィル 平等と不平等の理論家』2019年5月講談社学術文庫(2021.07.19)
- 日本の教育システムは、「成功」かつ「失敗」である(2021.05.19)
コメント